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母校がタワーマンションになる話

2005年3月、東京都北区立赤羽台東小学校が閉校した。
私は2002年4月から閉校までの3年間、この「東小」で過ごした。
東小の閉校後、私は赤羽台という街からも離れた。
赤羽台を離れてから20年あまり、久しぶりに訪れた赤羽台は大きく姿を変え、母校の東小もすでに取り壊されていた。東小の跡地には、タワーマンションが建設されることが決まっているという。

東小と赤羽台団地

初めて東小へ登校したときのことを、私はよく覚えている。東小の児童があまりに少なかったからだ。同級生は私を含めて11人、その年の新入生はたったの6人だった。全校児童80人程度の小さな学校へ、私は転校をしてきた。
赤羽駅からほど近い東小が、なぜ過疎化が進んだ田舎の学校ようになってしまったのか、そこには東小の周辺環境が大きく影響をしていた。

東小の周辺には、1960年代に整備された赤羽台団地という全55棟・3,373戸の日本でも有数のマンモス団地が存在していた。1962〜1966年の短期間に整備された赤羽台団地には、整備と同時に若い夫婦がたくさん入居し、団地でたくさんの子供たちが産まれた。
その結果、短期間で同じような年齢の夫婦が団地に流入し、同じタイミングで子供が生まれ、その子供たちが同じタイミングで小学校へ入学した。団地内には元々、赤羽台西小学校という学校が存在していたが、団地で暮らす子供の数が増え続ける中で、次第に対応できなくなり、西小から分校するという形で、1964年に東小が開校した。

その後、日本の住宅事情は大きく変化した。郊外型の戸建て住宅や、現代的なマンションといった、団地以外の多様な選択肢が現れるようになった。さらに1960年代に建てられた団地も、次第に老朽化が進み、新たな住民の流入が減少する一方で、団地で生まれ育った子供たちは、成長と共に団地の外へ転出していった。その結果、団地の中で新しく子供が誕生することはなく、1960年代に団地で暮らし始めた親世代だけが、赤羽台団地で暮らし続けることになった。
そうして私が赤羽台で暮らし始めた2000年代には、老朽化した築40年のマンモス団地と、そこで暮らす多くの高齢者が残された街となっていた。高齢者が多く、子供がいない団地に立地する東小は、次第に児童が減っていき、2000年代には、全校児童100名以下の学校になっていった。

旧赤羽台団地の様子
公団ウォーカー(照井啓太)より引用
https://codan.boy.jp/danchi/tokyo23/akabanedai/index.html

東小での日々

東小へ転校する前、私は新潟の小学校に通っていた。新潟の学校は、1学年150人以上の児童がいた比較的大きな学校だった。
1学年150人の学校から、11人の学校への転校。私の学校生活は大きく変わった。

教室には、11台の机がUの字型に並べられ、授業も11人の児童に対して、1人の先生。今思うと塾のような手厚い環境だったと思う。
80名程度の児童のためだけに、校内に給食室が設置され、新潟のような規模の大きな学校では、配膳の関係で提供できなかったであろうスパゲッティやビビンバといった多様なメニューが提供され、給食が本当に美味しかったことをよく覚えている。
水泳の授業は2学年合同で行っていたが、合同でも30人程度しかいないので、スイミングスクールのような手厚い指導を受けた。そのおかげで、スイミングスクールに通わなくとも、一通りの泳法を身に着けることができた。
もちろん学年が上がってもクラス替えなんてものは存在せず、3年間クラスメイトは変わらなかった。学年の上下間の隔たりを感じたこともほとんどなく、学年関係なく遊んでもらった記憶しかなかった。3人や4人しか入学してこない新入生を、学校全体で大歓迎していた。
小規模学校ならではの苦労もあったかとは思うが、総じて充実した学校生活を送ることができたと今も思っている。

少ない同級生ながらも楽しく遊んでいた
Uの字型に机が並べられている

東小の自主閉校

当時の北区教育委員会の資料によると、2004年3月「 東小の子どもたちの未来を考える会」が発足され、2004年7月の臨時保護者会において「自主閉校」という方針が採択されて、2005年3月に東小を閉校することが決まったと記されている。
keikakuann.pdf (city.kita.tokyo.jp)

自主閉校が決まった後、学校のお別れ会のようなイベントも開催され、東小との別れが近づいていることを私も感じながら、最後の1年間を過ごしていたと思う。
2005年3月、最後の卒業生を送り出した東小は、40年の歴史に幕を下した。東小の閉校と併せて、私は新潟へ戻ることを選択し、赤羽台からも離れることになった。
他の同級生たちも、全員が同じ学校へ転校したわけではなく、いくつかの学校へ分かれていった。3年間同じだった11人のクラスも、閉校に併せてバラバラになった。

校舎に張り出された「ありがとう東小」

変わりゆく赤羽台

私が赤羽台を離れてから、赤羽台は急速に変化していった。赤羽台団地の取り壊しと、新たな「ヌーヴェル赤羽台」の建設が、2006〜2018年の12年間に順次進んでいった。
ヌーヴェル赤羽台における建替事業 | UR都市機構 (ur-net.go.jp)

赤羽台で暮らしていた当時、遊んだ公園も、友達が住んでいた団地も、団地の下の駄菓子屋も本屋も、まるっきり無くなり、そこには、きれいな「ヌーヴェル赤羽台」が立ち並んでいた。

一方で変貌した赤羽台の中にも、旧赤羽台団地の面影は残されていた。旧赤羽台団地の一部は、登録有形文化財に登録され、戦後の住生活環境を示す文化資源として、保存活用されることが決まっている。ur2019_press_0719_akabanedai.pdf (ur-net.go.jp)

また、建て替えられたヌーヴェル赤羽台の中にある公園には、旧赤羽台団地内の公園に設置されていたコンクリートのうさぎ像が移設され、子供たちの遊具として再び活用されていた。

建て替え後のヌーヴェル赤羽台
様変わりをしている
ヌーヴェル赤羽台の中に、旧赤羽台団地が保存されていた
おそらく旧団地の動物公園にあった
コンクリートのうさぎ像

母校の解体とタワマン計画

変貌を遂げた赤羽台の中で唯一当時の面影を残していた東小も、2021年、ついに解体が始まった。跡地は三菱地所レジデンスを中心とする事業者へ引き渡され、29階建てのタワーマンションと生活利便施設を整備していくことが、2022年10月に北区から発表された。
【10月5日】赤羽台周辺地区中高層住宅複合B地区(東京都北区)の土地譲受事業者が決定|東京都北区 (city.kita.tokyo.jp)

東小の立地は、赤羽駅から徒歩5分程度。さらに台地の東端に位置するため、タワマンにとって重要な眺望上も好立地であり、分譲価格もエリア内でトップクラスの価格帯になっていくだろう。

プレスリリースより引用
東小の校舎はすっかり解体され、仮囲いに覆われていた

再開発と記憶の承継

高齢化が進んだ結果、人口の再生産がなくなり、外部からの人口流入もなくなった2000年代の赤羽台は、街としての新陳代謝がなく、明らかに活気を失っていた。そうした街に必要なことは、再開発による建物のリニューアルと、それに伴う外部からの人口流入であることは、誰の目にも明らかであったと思う。再開発の結果、街並みは一変し、2000年代にはいなかった新しい子育て世代と、たくさんの子供たちが赤羽台に戻ってきた。そして、一変された街並みの中にも、文化財として保存された旧団地や再利用された公園のうさぎ像といった、過去の赤羽台の記憶を承継するものが残されていた。

東小跡地の再開発においては、どうであろうか。東小の校門跡の近くには、この場所に東小があったことを示す記念碑が建てられていた。しかし解体作業中の現在は、この記念碑に近づくことはできず、その姿を見ることはできない。東小の記憶を承継する校舎や校庭はすで解体され、もう残っていない。東小の記憶をこれからも承継しうるものは、この記念碑しかないと、私は思う。東小で学び、遊んで、たくさんの思い出がある者として、東小の跡地がタワマンとなった後も、この記念碑が同じ場所に存在し続けることを望まずにはいられない。

記念碑
東小から、2,652名の児童が巣立っていった

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