志村の非文化的日記①~歳末助け合い編

12月XX日

「本当の事を言おうか」
 
 のっけから何?って感じですが、これは大江健三郎が『万延元年のフットボール』内で引用していた、谷川俊太郎の詩の一節です。『万延~』はでかい全集で持っているものの、文庫本サイズにフェティシズムに近い愛着があって、改めて講談社文芸文庫版を買い読み直したなかで、引っかかった言葉。物語内では鷹四という主人公・蜜三郎の弟がここぞという時のために言う、人生を賭けた言葉、として用いています。
 
 「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事を考えてみていた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」
(大江健三郎『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫、1994)

 谷川俊太郎がこの小説が発表された当時(1960年代後半)、まだ若い詩人、と形容されることに年月を感じます。
 持っていた詩集を繰って見ると、件の詩が載っていました。

本当の事を言おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
(「鳥羽 1」より部分。谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』岩波文庫、2015)

 初めて読んだ時は完全にスルーしたのか、全くもって記憶になかったです。部分的な引用にしましたが、個人的にかなり良い詩だな、と思いました。詩の内容、というよりあくまで大江がしたのは字義的な引用、という印象はあります。
 奇しくも、この『自選谷川俊太郎詩集』から採用された、自筆の原稿を表紙に使う装丁は、以降岩波文庫より出版される(現代詩人の)詩集のお約束となり、後に講談社から刊行された大江健三郎の全集にも、同じような自筆原稿を用いた装丁が採用されます。まぁこれは余談ですが。
 2020年暮れ、ほんの数ヶ月前の携帯のメモ帳を見てみると、結局書かれただけで満足ないし昇華されそのままとなった数多ある雑文の下書きの中に、まさに"本当の事を言おうか"と形容されるべき類のものが残っていました。それをツイートないし表へ出す状況では幸か不幸かなくなったため、「あぁあの時本気でこんなこと考えていたんだ」と『万延元年のフットボール』読後にたまたま見返して、不思議な気分になったものです。来年、あっさりそれを言ってるかもしれませんが。それは分かりません。そしてこれは気分の記録なのです。


12月XX日

 ネットショップでよく利用するサイトはどこも発売日前に完売となっていたAlex Stevensの7インチを、ディスクユニオンの店頭受け取りで予約した。それを受け取るために繁華街へ出、ついでにふらふらと散歩した。久しぶりに神社に行く。参道へは、学生時代に通学路として慣れ親しんだ商店街や店の連なる道を通るのだが、今年そこを歩いたのは初めてだったかもしれない。1、2年前と比べても、知らない店が増えていた。古着屋、ラーメン屋、美容院。前を歩く老夫婦が道路に面した家の扉をガラッと開けて入っていった。そこは、何度もその前を通ったことがあるのに、ついぞ入ることのなかった渋い佇まいのお好み焼き屋だった。今月で閉店する旨を書いた張り紙を扉に貼っていた。
 やがて参道へ至ると、思っていたよりも人がいた。そういえば、初詣は割と来ているが、年末に来たのは初めてかもしれない。ちゃんと見なかったが、"いかにも正月に使いそうな枝の何か"を売る露店が出ていた。僕が行った時間帯、一人で参道を歩く男は大体お年寄りやおじさんで、自分くらいの年齢の男はほとんど見かけない。若い人には連れがいる。それは同性であったり異性であったり。昔はそんなことにいちいち感傷的な気分になったりもしたが、特にどうとも思わなくなった。
 砂利が歩く度にざくざく鳴るのが小気味いい。最近出先でも音楽を聴かない。この日は快晴で風もなく穏やかな気候で、はからずも散歩日和だった。手水舎には板が乗せられていたので、そのまま境内へ。ここの神社では必ず、木に触れて何やら祈っている人を見かける。やはり俯いて無心に木に触れているおばさんがいた。お賽銭をしてお参りを済ませると、もと来た道を引き返す。子供とお母さんの二人連れは結構見かけるが、不意にある光景に目が留まる。赤ちゃんを乗せたベビーカーを押し神社へ向かってくる女性と、僕のようにお参りを終え帰路につくおじいさんが、参道においてちょうどすれ違った。生まれたばかりの子供と、老境に差し掛かったおじいさんという何のことはない対比なのだが、この瞬間、何故だか人生を感じてしまう。だからと言って自分のこれまでを自省したり逆にこれから頑張るぞ!と発奮したり、というわけではなかった。単に人生を感じたのだ。
 やがて参道も終わり一般道と交わるという辺りで、横から小さなキャリーバッグを曳いたおばあさんが出てきた。そのキャリーバッグには段ボールの小包が載せられていたのだが、参道のでこぼこした道にキャリーバッグが跳ね、バランスを崩したその小包がどかっと落ちた。拾おうとすると今度は提げていた荷物も落とした。思わず「大丈夫ですか?」と声をかけ手を伸ばしたが、「あら、ありがとうございます、大丈夫ですよ」と返されたので、僕はそのままおばあさんを追い越して歩を進めた。すると後ろからどかどかっと鈍い音がする。振り返ると、おばあさんは小包を拾い載せてちょっと動いて落とす、を繰り返している。思わず笑ってしまったが、やはり「大丈夫ですか?」と声をかけずにはいられない。しかし全く同じことを返されたので、僕はそのまま完全に参道を抜けた。大丈夫です、と言われても無理に手伝うべきだったのかな、とぼんやり考えながら駅に向かったが、同時に、どうやらなんとか自分はまだ人間をやれているようだ…と思う。帰りがけにスイーツをしこたま買った。
 時世的に外をふらふらしにくいが、たまには散歩して、気分転換に景色を見たり、人を見たり、あるいはレコードでもお菓子でも服でも何でも外のものを見ないとダメだなと、改めて感じた日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?