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【小説】カレイドスコープ 第15話 泰人

 前回


 最初に目に入ったパンチングが施された正方形の板の集合体が、天井の細工だと分かるまでに30秒近くかかった。

 そして自分が寝そべっていて上を向いている事を理解するまでにも、更に30秒ほどの時間を擁している。

 左腕には点滴の針が刺さっていて、まだ点滴液は半分程度も残っているようであった。

 重力が倍近くあるくらいに自分の体を動かすのが難しく、体のあちこちは打撲のような痛みでヒリヒリし、現状把握にはまだ不十分であったが、泰人はそのまま体の力を抜き、再び目を閉じて体を休ませた。

 目の裏には断片的な記憶が浮かんでは消え、その時系列にもまとまりは無かったが、原口に甲板から押された瞬間の画像が浮かんだ瞬間、パズルのピースがはまったかのようにこれまでの記憶が繋がっていった。

 たまたま船室から取り出した備え付けのジャケットが、簡易型のライフジャケットを兼ねたタイプだったのが幸いして、しばらくは夜の海を漂った事。

 体力が限界に近付いた時に通りがかった太平洋横断をチャレンジしているヨットに、見つけてもらって引き揚げられた事。

 船内から無線で連絡をしてもらい、近隣の島まで運んでもらった上、島の医療センターに運ばれた事。

 口をきく事さえ困難だったため、そのまま気絶するように意識を失ったのを思い出したが、それからどのくらいの時間が経過したのか、泰人には全く想像出来なかった。

 どんどん記憶が戻ってくるに従って、不思議と体にも力は戻ってくるのを感じたが、更に記憶が遡って恭平や沙耶の事まで思い出した時、今すぐにでもここから動かなければいけない気持ちが高まり、ベッドから跳ね起きて点滴の針を抜いた。

 まだ自分の足が思い通りに動かない事に苛立ちながらも、泰人は病室の中を観察して、自分の置かれている状況の把握と、ここから逃げ出す為にどうすれば良いかを必死に考え始めた。

 まず自分が着ている服が患者衣である事が分かり、ベッドの下を覗くと履いていた靴も見当たらないので、この格好のままで外に逃げたら目立ち過ぎてしまう事が容易に想像できた。

 部屋の中を物色しても脱走の際に役に立ちそうな物は見当たらず、必死に思考を巡らせても名案は一つも浮かんでこなかったので、半ば自棄気味になりながらも息を殺して忍び足でドアに近付き聞き耳を立てたが、人の気配がしなかったのでそっとそのままドアを開けてみた。

 島の診療所だという事が幸いして、看護師が常時待機している訳ではないようで、廊下を音をたてないようにしながら隣の部屋をガラス越しに覗くと、白髪頭の初老の男が白衣を着てテレビを見入っているのが目に入ってきた。

 テレビに映っていたのはどうやら映画のようで、ブルース・ウィリスがブラッド・ピットに翻弄されているシーンの音量が大きかったせいか、泰人の気配に気付くことなく画面にくぎ付けになっていた。

 泰人は息を潜めて後ずさりし、病室に戻ると窓を開けてそこからトイレのスリッパを穿いて外に逃げ出した。

 とにかく目立ち過ぎるいでたちをどうにかしたいと思ったので、通りに面している家の庭を覗いては男物でサイズの合う洗濯物が干されてないか探しながらコソコソと歩いたが、漁村の集落のような戸建てが並ぶ中では、めぼしい物など見つかりそうになかった。

 ただ海辺近くの漁港付近では、作業用と思しき防水用のジャケットが数点外に掛けてあったので、周囲に人がいないことを確認して素早く一枚盗み取り、足早にその集落を後にした。

 まずはこの島についての情報を得るためにスマホがほしかったが、そう簡単に手に入る環境ではなさそうだったので、次に絶対に必要になるお金をどうやって得ようか考え始めた。

 海に面している平地の部分は少なく、集落のすぐ裏手は山になっているようで、山の頭頂部付近に木陰に隠れて赤い鳥居があるのが分かると、空き巣に入って騒動を広げるよりはマシだと考え、或る可能性に掛けて舗装されていない人道を上って神社に向かっていった。

 ずっと寝たきりであったのとしばらく口に食べ物を入れていなかったせいもあり、ごつごつした山道を登るには体力的に厳しく、すぐに足を止めて肩で息をする羽目になったが、それでも沙耶の事が脳裏に思い浮かぶと、まだ体に残っている余力を搔き集めて足を動かすことが出来、なんとか夜になって周囲がすっかり暗くなってしまう前に神社まで着くことが出来た。

 泰人が神社を目指したのには二つの理由があった。

 まず一つ目は診療所を抜けだした事がバレた際、捜索されたとしても夜にこの神社まで探しに来る可能性は極めて低いと考えた事と、神社であれば賽銭箱が設置されているはずなので、そこからお賽銭を拝借させてもらい、当面の逃亡資金に充てようと考えた事だ。

 今まで行ってきた人道を外れた犯罪まがいの事や、生まれてからこのかた宗教や神様に対して畏敬の念を持たなかったせいもあり、特にお賽銭を拝借することに関しては罪悪感無かったものの、なんとなくその罰が沙耶に向けられてしまう事を避ける為に、神社から拝借したお金はそのうち別の神社に同額以上を返そうと心に決めた。

 そういう風に考えている自分が意外で少し自嘲気味に笑ってみたが、そういった普通の人の考え方や感じ方を教えてくれたのが沙耶だと改めて分かり、疲労で重くなった体を神社の裏手の板敷きの縁側に預けると、意識が一瞬にして消えていくのが分かった。



 人けのない静寂な森林の中で突然発せられた、明らかに不自然な音を聞いたきっかけで、泰人は咄嗟に目を覚まして周囲を警戒した。

 この周辺の灯りは神社の入り口付近にある裸電球が光っている程度なので、泰人がいる神社の裏手は真っ暗になっていて、自分の掌さえも顔の近くに持ってきてもはっきり視認する事が難しく、こんな時間に音を立てるのはひょっとして野生動物が近くに来ているせいではないかと警戒を強めて身構えた。

 音のする方向が結構近くからで、しかも自分が寝ていた神社の正面からである事が分かってくると、泰人は息を潜めて音のする方向へ近付いていき、薄暗い照明の中で何が起こっているのかを確認しようとした。

 耳に入る音は何やら作業をしているような規則的な音である事が分かったので、動物ではなく人が来ている可能性が強いとは感じたが、こんな深夜に神社に来る人であれば、泰人を捜索する連中とは別だと思い、好奇心が首をもたげてきてそっと表を覗いてみた。

 真っ暗な場所から現れたのもあり、薄暗い照明の中でも表の人影はしっかり見えていて、そのシルエットは若い男性である事が分かってきた。

 そして驚くべきことにその男性がしている行為が、夜が更けたら泰人が行おうとしていた賽銭泥棒と同じ行動だったので、けん制する為に咄嗟に相手に分かるように姿を現した。
 
 「お前そこで何やってんだ?」

 自分がしようとしていることはさておき、泰人はその男の行為を止めさせるために大声で威嚇した。

 男は人が近くにいるとは夢にも思っていなかったせいか、泰人の怒声と暗闇から現れた姿に酷く狼狽し、賽銭箱から抜き取ったお札ばかりを右手に掴んだまま、踵を返すとそのまま入ってきた鳥居の方角へと走り出した。

 泰人はここでお金を抜かれて逃げられると不都合だとすぐに判断し、男を追ってそのまま走り始めた。

 男は鳥居を抜けると100段近くある急な角度の階段を駆け下りようとし、泰人は走りにくいトイレのスリッパを履いたまま追いかけていったが、このままだとすぐに逃げられてしまう事を悟り、スリッパを脱いで裸足で走り始めた。

 すると足の裏に小さな石が食い込んできたが、走るスピードが遅くなることを避ける為、頭の中で足の神経を遮断するように努めていると、今度は自分の体が上下に強く揺れている感覚に陥り、疲労で平衡感覚がおかしくなったのかと思い足を一旦足を止めると、揺れは一向に収まらず増々強まっていった。

 大きな地震が起こっていることが分かった瞬間、泰人はその場に四つん這いになって頭を押さえたが、正面を走っていた男が階段を下りている途中で大きな悲鳴を上げているのが聞こえてきて、その声は途中からすっかり途絶えてしまっていた。

 地震の揺れが今まで経験したことのないくらいの大きさだったのもあり、体感時間はずいぶん長いように思われたが、収まってから周囲を眺めると、鳥居は変な角度に曲がってしまい、まるでデッサンが狂っているようなフォルムになってしまっていて、神社に関しても中に備えられている物がすっかり散らばっているのが分かった。

 脱いだスリッパをもう一度履いて、鳥居を抜けて階段の下を眺めると、暗闇になっている下の方にさっきの男が倒れているのが目に入っていた。
 ところどころ倒壊した階段を注意深く下りながら一番下まで降りると、倒れた男は首が従来曲がらない方向まで曲がっていて、どうやらもう息をしていない事が分かった。

 泰人は冷静に男の背負っていたバックパックやポケットの中を物色し、財布とスマートフォンを抜き出すと、男の履いていたスニーカーも脱がせてから自分で履いた。

 スマートフォンのロック画面を財布の中で見つけた免許証に記載されている誕生日で打ち込むと開いたので、泰人はこんな状況下でも笑みを浮かべることが出来た。

 ただ財布と靴を取られた死体をこのまま放置しておくのも憚られたので、どこに隠そうか思案していると、今度は遠くから不穏な音が島に近付いる事に気付き、それが津波だと分かった瞬間、目前に広がる山の下に位置する村落一帯が波に飲み込まれていくのが暗闇の中でもハッキリ見えた。

 次回:10月15日更新予定

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