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【短編小説】 浮気疑惑

 100円ショップで買った伊達眼鏡は幅が狭いせいか克弘のこめかみを圧迫し、軽い頭痛に似た痛みが先程からの緊張感を更に増幅させていた。

 握った掌を開けば久しく見たことのない量の汗をかいており、慣れない事を必死にこなそうとしている健気な自分が間抜けではないかと思える度に、くじけそうな心をなんとか立て直して身体に力を入れた。

 普段穿かないジーンズは妙に太股に張り付く違和感がずっと気になり、上に羽織っているユニクロで買ったマウンテンパーカは、どちらかと言うと克弘が卑下している連中が良く着るファッションスタイルなので、トイレやなんかの鏡に映っている自分の姿を見た時は、目をそらしたくなるくらいにイケテなく感じていた。

 しかしそのお陰で一見では誰も自分だと認識出来ないのは間違い無く、その意味では大成功だというアンビバレントな満足感を得ていたのも事実だ。

 別に克弘に日常を逸脱する為に行う変身願望があった訳では無い。

 どちらかというと自分のファッションセンスには多少の自信を持っているナルシストタイプではあるので、趣味では無い服装など出来れば着たくないと考えている。

 今回止むを得なく変装をしているのは、現在付き合っている尚美が一日に取る行動を調査する為なのだ。

 克弘が福岡に転勤してきて1ヶ月目に彼女に出会った。

 元々関東に住んでいて旅行にもあまり出なかった克弘にとって、九州でさえも異国の地のように感じて心細い生活を送っていたのであるが、同僚の開いた合コンで出会った彼女は克弘の引き篭もっていた生活を変えて、まるで昔から福岡に住んでいるかのように錯覚するほどに愛着を持つことが出来るようになっていった。

 尚美は克弘より2歳ほど年下で実家に親と一緒に住んでおり、仕事は看護士の為に昼夜を問わず働いているので、お互いのスケジュールが合わない時は1週間近く会えなくなったりする事もあった。

 事の発端はほんの些細な出来事なのであるが、克弘の部屋で尚美と一緒にテレビを観ていた時にそれは起こったのだ。

 丁度地元のグルメ特集をしている番組を放映していたので、二人で食い入るように見ていたのであるが、或る店をレポーターが紹介した時に店の外を歩いている女性がほんの一瞬ほど映ると、それが尚美である事を勝弘はすぐに確信したのであった。

 確かに映っている時間はほん1.5秒程度ではあったし、32型サイズの液晶テレビに於ける映っている彼女のサイズたるや4センチ未満の小ささではあるのだが、その画像はかつてアメリカの映画館でコーラの画像を一瞬だけ入れて、販売数を飛躍的に上げる為に実験的に行われたサブリミナル映像の如く克弘の心の中に深く刻まれることとなった。

 勿論彼女が映り込んでいただけであるのならば、それを話題にして盛り上がってじゃれあうきっかけにでもなったのであろうが、往々にしてそうならなかったのは、彼女のすぐ横に親しげに寄り添っている男が一緒に映っていたからであったのだ。

 画面に彼女が映った瞬間のすぐ後に、咄嗟に彼女の方向を振り返ってみたのであったが、特に何にも気付いている様子は無く、突然自分の方向に振り返った克弘の真意を確かめるべく軽く頭をひねっただけで、無邪気な表情をその顔に浮かべるのみであった。

 思いも寄らなかった展開に克弘は暗澹たる気持ちに陥ったのであるが、それを本人に直接聞けるほどの勇気を持ちえてなかったので、必死に自分の見間違いであると思い込もうとし、その度に疑心暗鬼に捕らわれて、結局出口の無い心の迷宮にさ迷いこんでしまっていたのだ。

 それは克弘の仕事にも如実に影響を及ぼすようになり、気が付けばその事ばかり考えてミスも連発するようになってきていた。

 色々試行錯誤した後に導き出した答えは、直接本人に聞く事が出来ないのは自分の性格上無理なので、それならば真実を自分の目で確かめるという事であった。

 そうと決まれば『思い立ったが吉日』の格言の如く即行動に移す事に決め、早速有給を貰って平日の休みを取り、尚美の休日行動を一日中観察して白黒はっきりさせる事に決めた。

 人間は不思議なもので、初めは変装や尾行に一抹の罪悪感や不道徳を感じていたのであるが、いざ始めると何故か使命感と高揚感に心が支配される事を克弘は知った。

 前日の夜に尚美とメールのやりとりをした際に、休日の行動予定を質問して答えてもらっていたので、それと違っていた場合は要注意だと克弘は直感した。

 流石に怪しまれる可能性があるので尚美の家の近くまでは行けなく、午前中に予約を取っているという美容室に先回りし、道路を挟んで対面に位置するファストフード店のウィンドウから見張ることに決めた。

 おかわりで3杯目のコーヒーを口にして、多少胃がもたれ始めたくらいに尚美は現れた。

予定通りの行動に克弘は胸を撫で下ろしたが、まだまだ安心は出来ないので窓越しに尚美の一挙手一投足をつぶさに観察した。

 どうやら尚美の担当をするのは店長っぽい年長の人物のようで、あまり認めたくはないが、克弘の主観的な視点をもってしてもイケメンであった。

 なんだか楽しげに会話をしているようにも見えるが、接客上でのリップサービスとも取れる感じだったので、判断しかねているうちに結局1時間以上もファストフード店に居座る羽目になり、結局成果はコーヒー6杯分のゲップのみであった。

 次に向かう場所は、ペットとして飼っている熱帯魚の餌を購入しにいくはずだったので、克弘は先回りしていつも御用達であるペットショップに辿り着いた。

 ここでも尚美に見つからないように周囲の店を見渡してみたのだが、生憎コーヒーショップしかなかったので渋々入店した。

 とにかくコーヒー以外を頼もうとメニューを覗き込んでみたのであるが、運悪くコーヒー専門店だった為に、飲みたくも無い少し高目のプライスのコーヒーを頼んだ。

 普段だったら程よいアロマの香りを楽しんでから口にするのが克弘のコーヒーの楽しみ方ではあったのだが、鼻で息をするのを止め、舐めるような感じで少しだけ舌をつけながらコーヒーを味わった。

 少し時間を開けて尚美はペットショップに現れ、いつものように店先の檻に入っているまだ幼いフレンチブルドッグの頭を撫でてから餌を選び始めた。

 尚美を眺めながら、克弘ははからずもストーカーの気持ちが理解出来るようになってきた。

 本末転倒ではあるのだが、当初は尚美の浮気の疑惑を拭い去る為に尾行していたのだけど、自分が知らない尚美をこっそり盗み見する事でなんとも言えぬ達成感を得る事が出来たので、今後も機会があればしてみようと思い始める自分がいた。

 その後も全てスケジュール通りの行動だった為、最後の予定であった『JR駅前でパパの車に乗り込んでから家に帰る』という場面を見届けて終わるつもりだった。

自分の中に発見した新たな嗜好を充分堪能して、克弘は満足気味に駅前での最後のイベントを、何故か魔が刺して買ってしまった缶コーヒーを片手にして遠くから眺めていた。

 すると6時過ぎの一番駅が混雑する頃に、1台のセドリックが駅に横付けすると、中から尚美の父親と思しき50代にしては派手な男性が出てきて、尚美を車に招き入れて颯爽と立ち去って行った。

 初めて尚美の父親を目の当たりにしたのであるが、あんなにカッコいい父親であればたぶん今までも自慢だったのだろうと考え始めた時、フト以前に尚美が父親について言っていた事を思い出した。

 確か尚美の父親はメタボ体型で、更に愛車は未だに4駆のパジェロを乗り回しているといった感じのやんちゃな人物像だった。

 尚美の使う『パパ』の意味はいわゆる『愛人』の意味である事を理解し、いきなり有頂天からどん底に落された気分になりながらも、真実を確かめたい一心で尚美に今晩会う約束をメールで取り付けた。

 部屋で尚美を待っている時間にあらゆるパターンでの話の切り出し方を考えていたのであるが、いざ目の前にすると最も言ってはいけない言葉を発してしまっていた。

 「今日の夕方に、駅前で尚美が会っていた男性は誰?」

 どんな言い訳が来るのか克弘は身構えていたのであるが、目の前の尚美は別に緊張を見せる訳でもなく、軽く両肩を上げると淡々と話を始めた。

 「見てたんだ。 あの人は2年前から付き合っている某会社の社長さんよ」

 その口調にはまるで悪びれる様子も無く、なんだか業務報告をするかのように軽い印象を受けるものだった。

 「…そうなんだ。 でも、僕が尚美の事を愛してるのは知っているよね?」

 先程までは感情的に昂ぶっていた克弘ではあったのだが、尚美との感情の温度差がはやる心を急激に冷却したせいか、出てくる言葉は同情を引こうとしているものに終始した。

 その言葉を聞いた尚美は少し困った表情を顔に浮かべると、申し訳なさそうに宥める口調で克弘に言い返した。

 「私達がこうなる前に、お互い深入りしないって決めたじゃない。 だってあなたは福岡に単身赴任で来ている身で、奥さんどころか子供までいるんだし」

 克弘はそれ以上何も言い返せず、口の中に残っているコーヒーの後味に心地悪さを感じていた。

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