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【短編小説】 魔法

 一度耳にしたら、なかなか頭から離れる事が出来ないインパクトの強いコマーシャルソングのせいか、話題ほどにはおいしいとは言えない清涼飲料水の味を思い出しながらも、賢吾は翌日の精密検査に向けて看護士から渡された下剤を一気飲みしていた。

 飲み干した後の自分を想像した時は、眉間に皺を寄せて涙目で嘔吐を堪える姿以外は考えられなかったのだが、口当たりのよさと喉越しの軽さは、先日新発売された例の清涼飲料水より100倍はましな感想を持つに至った。

 賢吾は日常生活に於いて「入院」という事柄を、幸か不幸か身近な人達の出来事として経験した事が無かった為、テレビのドラマで扱われているような悲壮感漂うイメージを抱いていたのだが、入院二日目にしてそのイメージは呆気無く壊された。

 事の発端は5日前に遡るのであるが、緊張すると整腸作用に異常をきたす小心者の性質を持っている賢吾は、いつものようにトイレに行く回数が増えていたのでなるべく心を平安に保とうと、うろ覚えのヨガのポーズをとってみたり、愛読書の漫画で必殺技として用いられている呪文を唱えたりしてみたのであるが、一向に治る気配が無いのでそれを見た母親も心配して病院に連れて行かれる羽目になったのだ。

 風邪をひいて来院した時とは比べ物にならない量の検査をこなした後に、賢吾は自分の身に起こっている事が、少なく見積もったとしても尋常では無いと思わざるを得なかった。

 白髪でやせ細った体型のいかにも弱そうな担当医であるにもかかわらず、「即入院してください」の一言を境に、まるで絶対的な権力を誇示する裁判官を壇上に見上げる被告人のような気分を味わい、賢吾はただ雨の日に軒先で震える子犬のような存在に成り下がってしまっていた。

 高校2年生とは本当に微妙な年令だと賢吾は感じた。

 中学生くらいだったらここで泣いても周囲からは親身になって宥められたり慰められたりするのだろうし、20歳を過ぎていればきっと我慢は効いて、もっと論理的に現状を捉える事が出来るだろうと考えていた。

 とにかく高校2年生という「魔」の年令のせいか、賢吾が医師からの入院宣告に対して出来た唯一の反応は、なんだか気持ち悪い愛想笑いをしながら、泣き笑いの不気味な表情を浮かべるのみであったのだ。

 早速案内された病室は、4つもベッドが並んでいる割には狭くて日当たりが良くない湿度が高そうな部屋だった。

 賢吾はドア寄りの日当たりの更に悪いベッドに案内され、とりあえずしばらくは共同生活を送る事になるであろう「ルームメイト」を、本人達に気付かれない様につぶさに観察した。

 窓際のベッドにいる老人はひょっとしてここに長期間いるのであろうか、周囲に様々な持ち物が散乱してすっかり風景に溶け込んでおり、なんだか病院生活に根が張っている印象を受けた。

 対面のベッドに鎮座しているのは30代のサラリーマン風の物静かな男で、あまり病人には見えないほど血色も良く、暇を持て余しているのか雑誌が何冊もシーツの上に投げ出されている様子は、なんとなく退院間際だと推測された。

 二人とも賢吾にとっては人畜無害は印象を与えるもので、この入院生活に於いても大した干渉は受けないだろうと安心した。

 そして最後に賢吾のベッドに並んだ隣のベッドを覗き込むと、そこには誰も寝てはいなかったが誰かが利用している痕跡が見て取れた。

 しかしベッドの周りに於いてある数々の怪しいグッズが、賢吾の不安を掻き立てずにはいられなかった。

 骸骨を模ったペンダントに悪趣味な豹柄の枕カバー。

 そして極めつけは、どこで買ったのか想像も出来ないが、明らかに発禁であろう殺人に関するHOW TO BOOKが棚に並んでいたのだ。

 ここが病室ではなく集団房に思えてきたその瞬間、賢吾の後ろでドアが勢い良く開く音がし、振り返ると髪の毛を赤く染めた目付きの悪い男が立っていた。

 その男は賢吾の方に鋭い一瞥を向けると、まるで興味が無い様に自分のベッドに向かって歩き始め、ベッドに寝転がると同時に賢吾に背を向けて、彼流の初対面の挨拶を終えた。

 賢吾はこの入院で、自分の神経性胃炎がさらに悪化するであろう事を確信した。

 まさに悪い予感は的中し、ヒマな時にはその男からお金を掛けたカードゲームを持ち掛けられたり、ヤクザまがいのお見舞い連中にびびらされたりの連続で、安静にしているにもかかわらず、心身共に疲弊する毎日を過ごし精密検査を迎えることになってしまった。
 
 精密検査の前日だったが、どうやら男の上司と思われる堅気ではない強面の人物がお見舞いに訪れに来た時、まるで彼が別人のようにペコペコしているのを目の当たりにし、なんとなくその光景は同情を誘うものであった。

 下剤を飲んだ翌日に行った精密検査の結果は、「特に異常無し」と言う事だった。

 白髪の痩せた担当医は、入院前の検査で賢吾に胃癌の疑いがあった事をまるで料理のレシピを読むように淡々と伝え、それが今更になって賢吾に恐怖感を与えたが、レントゲンに大きな影が映っていたのは、どうやら下痢の症状にもかかわらず便秘気味で溜まっていた糞だったみたいで、生まれてこの方こんなに恥ずかしい思いをしたのも初めてだった。

 賢吾の母は漸く安心したようで、何度も担当医に頭を下げてお礼を言っていたのだが、賢吾は元々自分がどうしてこのように入院する羽目になったのか、薄々は感づいてはいた。

 自分だけはなんとかこの世界で上手くやっていけると高をくくってはいたものの、高校に入ってから勉強や交友や将来の夢に対してことごとく挫折して、それでもそれを認めるのが悔しくて普通の振りをしておきたくて、同級生がステレオタイプの青春を送っているのを見ても素直に羨ましいと思えなくて、ずっとずっと孤独だったくせにそれが平気な振りをする事に慣れていたつもりが本当は疲れていたのだ。

 帰宅の準備をしようと病室に戻ると、隣の男は何故か自分のキャラからは縁遠い「ハリー・ポッター」を読んでいて、照れ隠しの為なのか珍しく声を掛けてきた。

「お前がもし一つだけ魔法使えるなら、どんなのがいい?」

 冗談なのか本気なのか判断し兼ねるその質問に、賢吾は本音を少し含んだ言葉で返した。

「…自分以外の人間になれる魔法かな?」

「バーカ、それじゃ結局別の人間になっても同じ事考えるっつーの。それよりも俺はもっと自分が好きになれるように、もっと強い精神を持てる魔法を選ぶぞ」

 心の中では見下していた相手に言われたその一言にはカチンとしたが、言っている内容は至極当然の事に思えて思わず納得をした。

 荷物をまとめて出て行こうとする瞬間、ベッドから男が賢吾の背中に向けて声を掛けているのが聞えた。

「負けんじゃねーぞ!!」

 その言葉は賢吾に向かって放たれてはいるが、きっと本意は自分自身を叱咤激励する為なのだろうと思われた。

 病院の自動ドアを抜け外に出ると、入院する前に比べて世界が少し縮まった気がして、頬を撫でる風に心地良さを感じながら、少しだけ体に力が漲るのを実感した。

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