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わんわんカーニバル上尾支店


以下、短いメモなど



hoos

サービス精神でこんなの人生でないッ!とか初めての気持ちだッ!とか言ってしまいますけどね。これ、盛ってるってよりも、マジで記憶が欠落してるってのが近いんです。怖いのよ自分でも。
とある機会があった時、私をみておそらく深層心理にアクセスして、「演技」の話をされたことがある。私は常に演技がかってるんかしら、と気にしていた時のことでした。日常の中の演技ってなんなんでしょうね〜と言われ、自分のことを真っ先に考えました。人と話した後ぐったりして動けなくなることもままある自分は、明らかにコントロールできないところで過剰な演技をしています。
制作で、自分と老婆がメチャクチャ踊ってる映像を撮ったことがあります。しかし、その時の自分の表情や声や態度全てがわざとらしくて、マジでイライラしました。ただ相手に楽しんでもらえるように、できることを全てやったつもりだったのでとても落ち込みました。こんな人間生きてて良いんか???と行くところまで考えが行く自分にも驚き、混沌と睡眠不足の中、なるべくわざとらしすぎるところをカットしたのが記憶に新しい。
そういう私をみて、素の自分みせチャイナ〜とか言ってくる者が時々いますが、そんなことを言われたが最後、天邪鬼でもある自分は全部ウソ笑顔ウソ相槌ウソ呼吸ウソ歩行でやり過ごすことでしょう。自分でも困ってしまいます。一丁前にanarchistの血がかなりあるというのも、原因の一つでしょう。これもほぼアンコントローラブルの位相の話です。困っています。
だからこそ、私は私のことをよく、水圧が高すぎることで暴れまくってるホースみたいだなと感じます。コントロールできない部分が多く、それは攻撃性というよりも、他人に迷惑をかけたくないという気持ちが暴走している感じです。人に迷惑をかけていいのよ…とかも時々言われますが、迷惑をかけて良いのよ…と思ってる人にそのまま垂れ流すように迷惑をかけたとして、「流石に迷惑かけすぎだろ」と思われるともう立ち直れないので、こういうジレンマを縫って生きています。
そしてごく稀に、こうした訳のわからないリスクと闘い続ける私を面白がってくれる者も現れます。そういう人は、ホースの規格を変えてくれるなーと思うんです。つまり、私の情動や行き過ぎた気遣いや想定の量は変わらないけれど、受け止めるキャパシティを拡張してくれる訳です。それが、多分自分のいまの生き方なのかもしれないです。


孤独とは


なんだか、38ページしか読めてないレヴィナスの本には、「孤独とは時間の不在のことである」と書いていました。私はそれを読んで、明らかなコペルニクス的転回を自分に認めたものです。
下にあるものは、過去の日記です。


2023年9月2日(土)23:59
ぼーっと何かを考えていると、それが「考慮」となり、「思慮」と姿を変え、その間を行き来する。
つまり「考えること」を定義しなおせば、広義的な他者へ想像力を働かせることと言い換えられる。
ともすれば、私には目の前にあることや自身の感覚を信じることが、とても難しく感じる。
突き詰めた先には、自己を肯定する力が必要であり、それはただしく自分を認識する能力である。だからこそ自己肯定は、一番ラディカルな行為だろう
多忙のなかで、あ一何のために生きてるんだろ..と思う瞬間があったとして、それはやはり貴方の中に時間が失われているからと考えるととても納得がいく。
何で私は寂しいんだろうと思ったとして、貴方は一人だから時間がないのだと考えると納得がいく。時間というものは、明らかに外部=他者との接触によって生まれるもので、個人に時間は流れていようとも、他者としての時間に接さない限りはじかんをかんじることはできない


校閲なんてしないのが日記だから、途中何言ってんの?と思うところもあるね。結構文章はメチャクチャです。
付け加えると、「広義的な他者」=「目の前にあること」や「自身の感覚」までも含まれるということだと、やっと思い出しました。
つまり、
「心配と思いやりを行き来することがありますよね?それらを統合した「考えること/想像すること」というのは、結局自分自身を正確に見つめることに行き着くんじゃないのかな?つまり自分を肯定できてないといけないよね。
閑話休題
忙しいと自分の中に流れる時間というものがない感覚に陥るよね?
あいるは、自分が寂しい…………と思うのは、自分だけの存在しか認めていない状況だからなんじゃないかな?人といることで初めて他人の時間を感じて、自分の時間の存在に気づくよね?」
ということを言っています。
ともあれレヴィナスのその言葉は、私の中に新たな価値観を醸造しています。
わかるーーー!!!という感覚がいかに自分に大事か、この一年よく思ったことです。わからないこと、できないなと強く感じます。課題でも、意味がわからないとできないし。。






発見、クリスティーナ

サンボマスターと「女の子はみんな可愛い!」っていう女の子のインフルエンサーって全く同じ位相にいる。

あきらめないでどんな時も 君なら出来るんだどんな事も

女の子は誰でも可愛くなれる

は全く同じ。
良いか悪いかの話はしてないよ。どちらにも救われた夜があります。


理論武装

お恥ずかしい話です。私は、何かを考える時、「言語化能力」という訳わからない能力を褒めてもらうことが時々あります。それを言い換えれば、細かいところを描写して秩序だったようにみえる会話や文章を残す、ということなんじゃないかと思います。それは全く良い/悪いで語られるような能力じゃないと思います。
だって自分がそうやって話すのは、ただ一番楽なだけだからです。Twitterやnoteを例に挙げると、脈絡のないボケとか顔文字とか画像大喜利を文章媒体に残すことの方が体力要るでしょう。スベっても(誰かに………みたいな真顔で読まれる想像が容易くても)、それを残せてしまうのって、本当に私には考えられません。すごいことだと思っています。私は「あー!いやいやいや別にウケるつもりで喋ったんじゃないんですけどね!!だから全然ウケてないのも想定内ですよ、ほんと、ウケるつもりでやってないので、はい。」みたいな感じで、ほんとは笑ってほしいのに真顔でボケるみたいな逃げ道ばかり作って生きて参りました。その結果、今のようにかっちりした文章や思考をしたい、というところに行き着いただけなんです。つまり、理性で獲得した怠惰と言っても過言ではないです。
当たり前だけど面白い文章って、面白くないといけないんです。そのハードルはいかにも高い。そしてなによりも、

何かに憧れていてはならない

と私は考えています。
どういうことか。この世には素晴らしい作家が山ほどいます。面白い文章は宝石みたいですよね。ただ、めっちゃ面白い人の真似をして書いた文章ほど耐えられない文章(あるいは作品)はないと考えています。
以前銭湯で土屋賢二氏のエッセイを読み、大変面白い!!と思って氏について調べていました。するとファンのレヴューはぜんぶ、土屋氏をスッカスカにしたみたいな文体で氏の著作を褒めていて、なんだかゾッとしたんです。それが自由な文章で行われていても、こういう感じなんだったらキッツ‥となっちゃっうんです。そんなん自由にしたらええねん!と心のハマちゃんは言いますが、マジで無理なもんは無理でした。
上のエピソードのように、私がオモシロ全開!!!みたいなことをしたくてもできないのは、だれかのフォーマットの上でしか動けないだろうなと思っているからなんでしょう。よく言われるネタツイ界隈という人々の文章は、時々目を見張るほど面白いものがあり、中学高校の時は熱狂しておりました。ただ、やはり彼らが面白いのは常にフォーマットを編集し続けているからです。そこに乗っかった時点で自分はダメだなと思います。そして私自身フォーマットを開拓する自信も勇気も、こういう捻くれ者の外野を気にしない力もないです。
だから、「それなりに秩序を持つこと」に逃げているんです。ランジャタイ国崎氏のネタに、「電話がかかってきたらマグロ寿司だった」というものがありますが、これはまさに私のやりたいことだと、初めてみたとき稲妻が走りました。
つまり、いろんな表現を試した上で「わらかすぞ〜〜〜」と思って書くことが、メチャクチャ体力を使うからやりたくないだけです。狡いよね。ですからリハビリしようと思って、少しだけ自由に文章を書く訓練をしています。今まさに。



2023年9月7日17:02

目の前にいる女子高生が、「人のためにできること」という項目が書かれたプリントに

そうじ、メシをつくる

って書いてた




忘れてないよ

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