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妙子



妙子はそういって、砂漠の中を歩きました。
たしかに、向こうにいけばあるのかもしれないけれど、もっと楽な道を進めばいいのにと私は思います。だけれど、妙子のそういう、なんというか、難儀なところが好きです。難儀なところが、好きなんです。

そういえば妙子からも、難儀だねって言われました。あれは冬、二人で美術館に行った時のことでした。その時は全然嬉しくなくて、だって難儀って悪い意味じゃんと不満に思いました。今でも、妙子との楽しい思い出よりもそのぽろっと告げられた「難儀だね」ばかり反芻してしまいます。

妙子はクロックスが好きで、どんな時もクロックスを履いています。あのたくさん開いた穴の一つに、ほどけたミサンガをくくりつけていて、ダサいダサいとよく笑ったものでした。ミサンガ自体ダサいと私は思っていて、さらにはそれを穴にくくりつけるセンスは絶望的だと思います。でも、妙子は真剣だから毎回少し不機嫌になります。申し訳ないなと思いつつ、不機嫌になる妙子のことが普通の妙子くらい好きだから、私は空気が読めない人のふりをして笑っていました。それは明らかなエゴですが、妙子が私にエゴを向けてきたことがあるかと考えると、ほとんど思い当たりません。
ただ一つ挙げるとすれば、ある時妙子が「新しいロレックス買ったから見て!!!!」とLINEをくれた時くらいでしょうか。

あまりに息を巻いていうものだから、妙子にそんな金がないことをわかっていつつも、ついその気迫に気押されて急いで家を出ました。私の家からはドアトゥードアで38分、新宿駅の小田急とJRの間を妙子はよく待ち合わせに指定しました。なんで中央西口改札が好きなんだろうといつも思っていました。駅務員室前のポスターが変わるたびに、季節の変化を感じていました。ちょうどポスターが秋の高尾山へいこう!といった内容だったことを、何故だか鮮明に覚えています。
総武線が到着して階段を降りると、いつも通り小さな妙子が見えます。気がせいて、私は妙子の腕に目をやりながら小走りしました。でも何もついていなくて妙子にみせて!!と息を切らしながら伝えると、愛用してるぐでたまのトートバッグから新しい紫のクロックスを出してきました。ロレックスじゃないじゃん!!という失意よりも、妙子が新しいクロックスを買ったことがそんなにも嬉しいことなのか、という驚きが勝りました。そしてクロックスは好きでも、名前をちゃんと覚えていないのがいかにも妙子だなと納得しました。この短い間に感情がいくつも生まれては消化され、その中にいる私に妙子は、新しいクロックスを見せています。これを直接見せたくてわざわざ新宿に呼んでくれたんだな、と思うと笑えました。振り回されたな、とはもちろん思ったけれど、なんていうか、妙子は、ただ今を生きていて、今の中にいることが好きなんだなと考えたら、すごくかっこいいです。

その日は、ほんとうに紫のクロックスを見せるだけの日になってしまいました。新宿にせっかくきたから、職場の木見方さんが教えてくれたサンドイッチのお店に行って、二人で食べました。分厚くて、中身がオリーブとか入ってて、すごいおしゃれでした。ほんとは千歳烏山に本店があるらしくて、そこから徒歩16分のところに住む木見方さんは給料日後にご褒美で買うといってました。木見方さんが特別な日にしか食べないサンドイッチを、私は木見方さんの心を借りて、想像して頬張りました。 
妙子はご飯が美味しいことに興味があるのかわからないけど、思いのほか食べ方が綺麗なところが面白くて好きです。もし自分が妙子の恋人だったら、こういうところが好きでたまらないんだろうな、と一瞬思い、なんだか気持ち悪い想像をしたなと思って別のことを考えました。でも、時々そういうふうに思います。それくらい、私の距離感の中に、妙子が入っていました。
楽しかったなーと思って、そのあともうちょい遊ぼうかと思ったけど、靴擦れがあったし疲れたから解散にしました。妙子は靴擦れを気にしなさそうと言いかけたところで、クロックスしか履かないから靴擦れとは無縁だと気づいて笑いました。妙子がどんな顔をしてたかは覚えてません。でも私の顔は、とても笑顔だったと思います。

それからしばらくして、妙子は、砂漠に行きました。クロックスを履いたまま、砂漠に行きました。せめて靴だけはちゃんとしたのを履かないとしんどいだろう、ともちろん思いました。
けれど、そもそも砂漠に行くことにも反対していた私は、靴のことを指摘した途端に、砂漠へ行くことはよしとしてる感じがしちゃって何にも言いませんでした。そういうこと、よくあります。最近、ケースバイケースって言葉に向き合えてるんですが、当時の私は近似値の感情をすぐに同一視してしまう癖がありました。妙子の性格を考えれば、何をいっても砂漠に行きかねないです。だからこそ、幸せを願う意味で靴を変えたら?と一言言えばよかったなと後悔しています。今思えばですが、妙子が砂漠に行ってしまって、私としばらく、というか一生会えなくなるということを全く受け入れたくなかったんだと思います。

妙子は砂漠に行きました。
妙子が砂漠に行く時は突然に訪れ、私がマイナンバーカードをローソンでコピーしている時にLINEで伝えられました。私の困惑の返信に対し、当たり障りのないスタンプを送られて以来、妙子からの返信はありません。妙子が今何をしているのか知りません。


今日、美佐恵さんに誘われて海に行きました。美佐恵さんは海の近くのお家に住んでいます。彼女は、海岸沿いでお酒を飲んだり、ちょっとしたおつまみを食べたりする遊びを私に教えてくれた人です。半年に一回くらい大パーティを催していて、そのたびに誘ってくれます。
思えば、美佐恵さんとも妙子とも出会ったのは同じタイミングでした。魚専門のペットショップのビンゴ大会で美佐恵さん、私、妙子の順番で連続にビンゴが当たって、あまりに運命を感じ、主に美佐恵さん主導でそのあとお茶をしてからの仲です。私はサンゴが当たって、美佐恵さんは水槽内を綺麗にしてくれるタニシ、妙子は金魚の高級なエサが当たりました。当時の私はグッピーを飼っていたので、たまたま水槽の備品を買いに行ったらビンゴ大会があり参加しただけです。まさか、サンゴが当たるなんて驚きました。でも育て方が全然わからなくて、冷たい水道水に満ちた水槽に入れてしまい、すぐサンゴは死にました。あの時の自分が、今でも嫌いです。妙子は仕方なかったと言ってくれました。だけれど、きちんと調べずにサンゴを犠牲にしたことへの自己嫌悪は、いまも私の中を流れ続けています。妙子とどうやって出会ったか口外したがらないのはこのためです。

美佐恵さんと妙子はそれ以来会っていなくて、そもそもビンゴの日もたいして仲良くなっていません。なぜだか私はその両方と関係を保っていました。
やっぱり美佐恵さんに会うと、この日のことを思い出します。

仕事の関係で15時過ぎに美佐恵さんの家に着くことになりました。だから、夕方から海の近くで飲もうという話になり、ゆっくり美味しいお菓子や缶ビールを買って房総へ向かいました。
美佐恵さんは、いつもどこで買ってるんだろうと思わせるネックレスをしていて、これがダサいということなのか…と逡巡します。客観的に見たらダサいのかもしれないけれど、でも私はダサいとは思いきれないのはなぜだろうと考えます。きっとそれは、美佐恵さんが自分の価値観で、いいと思って身に付けてるからだなと納得したところで、波の音が聞こえました。

目の前に広がるのは大した海じゃないけれど、私は好きです。それなりに汚くて、目に見える限り砂浜にはゴミがちらほらあって、ガラス片が落ちているような場所です。ただ、大した海じゃないから好きなのかもしれないな、と思ったところで、妙子の顔が浮かびました。

美佐恵さんと他愛のない話をしました。美佐恵さんの機嫌がいいのは、株がうまくいってるからのようでした。美佐恵さんはビールと株とカルパスによって気が大きくなっていて、波打ち際に行こうと提案しました。私は靴が汚れるのと腰を上げるのがダルすぎて、一度は拒否しました。でも気分のいい美佐恵さんの世界では、私のダルい様子はとてもつまらなく映るだろうなと思って、そのあとすぐに乗り気のふりをしました。
美佐恵さんは、いろんなことに気づきやすく、気遣いをしようとしてくれます。そういう人への恩義の返し方は、その人の世界を拒絶しないで共に見つめることなんじゃないかと、上から目線だけど思いました。やっぱり、すぐ訂正して波打ち際へ行くことを請けた私を見て、美佐恵さんは嬉しそうでした。

私の靴は、足先がメッシュになっているスニーカーで、ベロのところもメッシュの生地でした。黒くて一見地味だけれど、ひとつひとつの意匠が凝っていて気に入ってます。だから、砂浜へ向かうのは嫌だったけど、美佐恵さんを拒絶したくない気持ちとその義務感が足を進めさせました。
歩き始めは砂の薄い、ほとんど石みたいなところでした。前に進むにつれて、波の音と砂浜の砂が増えます。意匠のせいで靴の中に砂が入ってきます。足を進めるにつれて、どんどん入ってきます。

ズザーって歩くしかなくなったところで、砂がスサーって入ってきたことを知覚した頃、ふと、妙子が砂漠を歩いている時の感覚がわかった気がしました。
靴下のしたに無数の粒が転がっていて、そこも小さな砂漠のようになっていて、一本だけ生える大木が自分の足の裏からふくらはぎのように思えました。靴の中の砂漠にそびえる、私の足という大木は、さらに伸びて伸びて、私の体を築いています。そして意思を持つ生命体として存在しています。子供みたいな可笑しな想像をしていると、さっきまでのダルさは消えて楽しくなりました。
そして、そんな空想の喜びがもしかしたら、妙子の中にもあるんじゃないかなと思いました。

そう思うとめちゃくちゃ嬉しくて、気分を落ち着けるためになんとなくスマホを見て、通知が来てたGmailを見て、しょうもないメルマガだったけれど、なんか嬉しくて、もうちょい先まで歩こうかと思いました。すでに美佐恵さんはずっと前を軽やかに歩いていて、私はそこらで止まって引き返す予定だったけど、美佐恵さんについていこうと思いました。

やっぱり、こういうことなのかなと思ったんです。妙子があれだけ砂漠に固執してたのは、どうしても前に行きたい理由が生まれてしまうからなんじゃないかなと、その時初めて思いました。空想に納得している時間が、それがほんとに可笑しくて、自然に前へ進んで、もっといろんな感覚を自分に取り込めたらなって気づいたら思っていました。
そして、何度も噛み締めてしまうけれど、妙子はいつもそう思ってたんじゃないかなってここで初めてわかりました。わかったつもりかもしれないけれど、妙子のことをわかったつもりになれたのも、嬉しいです。

妙子は砂漠にいます。おそらくですが、砂漠にいるんだと思います。クロックスの中にも小さな砂漠をこさえて歩いているのかと思うと、バカだなーって笑いたくなります。
妙子に次会うとき、マイナンバーカードを4回もコンビニのコピー機のところに置き去りにしてる話とか、そもそもマイナンバーカードをコンビニで使う機会が多すぎる話とかをして、また軽い笑いをしてほしいなって思います。妙子は、愛想笑いはしてくれるけど、それが他意なく鼻で笑うもんだから、美佐恵さんを見習えよーと思う時もあります。でも、その笑いの後にたいてい、もっと面白い話や提案や空想をしてくれるから楽しいんです。
妙子は、さらに面白くなって砂漠から帰ってくるのかなと思うと嬉しくてたまらないです。


カルパスを食べながら、足の裏に広がる砂漠を感じて、遠くの砂漠を思いました。妙子の足の裏にも似たような砂漠が広がっているんだろうと思いました。嬉しいです。

妙子は砂漠にいます。



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