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【#19 合言葉】批評家になるな!

「批評家になるな!」
この合言葉を目にすることが、ここ数年で増えた気がする。

「批評家になりたい!」
高校生の頃、そう思ったことがあった。

ある雑誌の巻末で批評の連載を偶然目にしたことがきっかけだ。
たしか、それは『STAND BY ME ドラえもん』に書かれた文章だった。
テクノロジーの未来を描くはずであった『ドラえもん』が人情ドラマ化したこととこの国が希望を描けなくなったことが相似しているという主張であった。

「裏から世界を見ている!」、そう感じた。
誰も知らない秘密を共有している感覚だった。

それからというもの、批評誌のバックナンバーを漁り、誌面に並ぶコンテンツを一つずつ塗りつぶしながら消費した。
コンテンツを楽しむのではなく、批評を楽しむためにためにコンテンツを摂取した。

自分の行為が倒錯したものだったと気づいたのは東京に来てからのことだった。
「アニメをたくさん見ている人のなかで批評を通っていない人なんていない」と思い込んでいるふしが僕にはあった。
しかし、コンテンツ分析系授業の発表で繰り返されるのは「共感しました」という言葉ばかりだった。そして、そこで扱われるのはディズニー/ピクサーとジブリ作品ばかり。

バランスをとってコミュニケーションしたり、空気を読むことが幸いにして不得手ではなかった自分は気づいた。
「裏から世界を覗くのは疲れる行為なんだ」
と。

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8月5日に渋谷・LOFT9で行われたKAI-YOU Premiumの創刊イベントに行ってきた。

PV数や広告収入によって成り立つWEBメディアにおいて、作品から適度な距離をとり批判的な目線を加える「批評」は成立しにくいのではないかという問いを考えるイベントだった。

登壇者の柴那典さんの、批評とは「別の見方を提示する」という定義に、私は先に書いたこれまでの経験もあって大きく頷いた。

イベントの後半では『天気の子』をたたき台にして「批評とは何か?」を明らかにされていたのだが、自分はあるツイートを思い出していた。

それは、『天気の子』の須賀に関するツイートだ。
その内容は、須賀の妻であった女性は陽菜と同じく巫女であったというものだった。それを、「須賀の子供が雨の日にだけ喘息を起こすため須賀の妻は度々雨を止めていた」「須賀がムーをはじめとするオカルト雑誌に寄稿するのは、彼の妻が巫女であったことからである」というように補足していた。
このツイートはおよそ1000リツイートほどされていた。

しかし、この考察の内容は批評を好む人間であれば想像に難くないものであると感じた。須賀と帆高の擬似親子的な関係性や、劇中の演出を精緻に見ていけばまあ考えられる。
ただここで言いたいのは、この内容は1000人の人間がリツイートするほどの需要があるということである。

(このツイートが考察の領域のものか、批評の領域のものかは置いておいて)
作品の「別の見方」を与えられてポジティブに捉えている人が1000人はいるということが嬉しかった。

「批評家というと、『難癖つけるやつ』というイメージが蔓延している」ということもイベントでは指摘されていた。

批評家とは「価値観クリエイター」だ。

『天気の子』についてのツイートのように、価値観を揺さぶられることを楽しむという文化はまだ残っていると思う。
自分はその感情を「批評」がハックすることが未来に繋がると考える。

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