スイミングスクールのカード



 姉がいなくなって、五年目の夏だった。

 その日、私は朝から姉の部屋の掃除をしていた。細く開けた窓から、ぬるい風が滑り込んでくる。小花柄のカーテンが視界の端でかすかに揺れていた。

 姉の部屋は、五年前からずっとそのままの状態で残されていた。勉強机に伏せられている文庫本や、棚に飾られている私と姉が映った写真も、あの日からなにも変わっていない。しかし、うすく積もった埃が、けして短くない時間を感じさせた。

 姉は、まるで春を悟った雪のように、ある日の朝、ふいに消えてしまった。

 

 わざわざ自室から引っ張りだしてきた扇風機は、熱した空気を必死にかき混ぜている。

私は何年も閉じられていた押し入れを開け、カビくさい布団をひっぱりだした。すると、布団と同時に、色鮮やかな菓子箱が転げ落ちてきた。ひっくり返して見ていると、遊園地で買った愛らしい菓子箱のようで、まっしろなお城とカラフルな風船が描かれていた。劣化した蓋を無理やり開けてみると、コバルトブルーのカードが、たった一枚入っていた。姉が小学生のころ通っていたスイミングスクールのカードだった。キャッシュカードくらいの大きさとかたさで、趣味が悪いあひるのキャラクターが描かれていた。そして、カードの上部に、爪先くらいの切れ込みが入っていた。気をつけなければ見逃すほどの、ちいさな傷痕だった。




 私は、小学生の頃、毎週水曜日に姉と一緒にスイミングスクールに通っていた。

 姉の方が私より一年はやくスイミングスクールに通いはじめていて、私も母のすすめで通わざるを得なくなっていた。

 姉はずいぶん楽しそうにしていたが、私は、どうにもその場所に馴染めなかった。まっしろな魚のなかに、たった一匹混じったくろい魚のような疎外感を感じた。自分の身を縮めて、少しでもことなった存在であることがバレないように身を潜めていた。

 けして泳ぐことは苦手ではなかったけれど、あの場所の何もかもが肌にあわなかった。壁面にペイントされた趣味の悪いあひるのキャラクターも、手垢がべたべた着いた手すりも、なにもかもが私ではない何かのために存在していた。ひどく憂鬱だったと、今でも思う。

 けれど、小学校の帰りに、送迎のバスを姉と待つ時間だけは好きだった。私たちは、それぞれの帰りの会が終わったあと、待ち合わせをして、送迎バスがくるのをふたり並んで待っていた。私はバスをまちながら、彼女の塩素で傷んだ髪が日に透けてあかく光るのを、すこし下から眺めていた。

 スイミングスクールでの姉は、まっしろな魚だった。それも、とびっきりうつくしい。だから、あの場所で、とても好かれていた。誰も彼も、こなまいきな私より、素直な姉の方を気に入っていた。私に至っては、送迎バスがついたらまず残念な気持ちになる悪い生徒だった。送迎バスから降りた私は、ぐっと顔をこばらせていたと思う。あからさまに、ついてしまった、という風の。私は、頭の先から爪先まで、まっくろな魚だった。

 受付にいる女性に会員証がわりのカードを渡し、女子更衣室の扉を開ける。更衣室に一歩足を踏み入れると、蒸れた空気と塩素のにおいがハイに飛び込んでくるのだ。温水プール特有の息苦しさに辟易しつつ、着替えている女の子たちの隙間を縫うように移動して、空いているロッカーを探していた。

 着替え終わり、プールサイドにいくと私と姉は、別々のレーンに別れる。うちのスイミングスクールでは、水泳のうまさによってクラスが別れていた。月に一度クラス上げのテストがあって、それに合格するとクラスが上がってカードの色と水泳キャップの色が変わっていく仕組みだった。私は当時みどりクラスで、姉はきいろクラスだった。姉のほうが私よりクラスがいくつか上で、いつも違うレーンで泳いでいたのだ。
 曇り止めを塗りたくったゴーグルを身につける。顔を水につける瞬間が、もっとも憂鬱な時間だった。

 水泳の授業が終わったあとは、たいていおもちゃやビート板が置いてある場所に、ひとりで隠れるように三角座りをしていた。まるで一匹の魚のようにすいすい泳む男の子や、声を張るくまみたいに大きい先生をを眺めながら、ちぎれかけたビート板のはしをいじっていた。自分以外のすべてがこの空間にきちんと馴染めている気がして、つまらなかった。案外、子供の方が自分がその場に順応しているかどうかを気にするのかもしれない。
 そんな怠け者だった私は、自主的に練習なんてもちろんやらなかった。授業が終わってもプールにいたのは、練習に精をだす姉を待つためだった。そうしてしばらくぼうっとしていると、練習を終えた姉が近づいてきて、帰ろう、と手を差し伸べてくる。記憶の中にある姉の手は大抵ふやけていて、私の手よりずっとつめたかった。私は、やさしい姉が大好きだった。


 私がスイミングスクールに通い始めて一年くらいたった頃に、姉がクラス上げのテストで不合格が続くようになった。
 合格発表は、テストが終わった後、生徒が一箇所に集められ、みんなの前で合格した者の名前が呼ばれるという趣味が悪いものだった。その趣味の悪い合格発表で、姉の名前は長らく呼ばれていなかった。まるくくまのように太った先生が、合格者の名前を読んでいく。最後の一人が呼ばれるまで、姉はまるで自分が罪びとのようにうつむいていた。
 トントン拍子にクラスが上がる私は、いつの間にか姉と同じクラスになっていた。けして好きではなかったけれど、不得意じゃなかったのが功を奏したらしい。そして今日、また一つクラスが上がった。私は前に出て、先生から新しいカードをもらう。ぴかぴかで、さっき作ったばかりだからか、じんわりと熱を帯びていた。

 合格発表が終わったあと、散らばる生徒の中で、姉だけはいつまでも動き出さなかった。声をかけることもできず、持っていたカードを触れる。さっき渡されたばかりの、作りたてのカードだった。姉は、からっぽの両手をかたく握っていた。

 先生が話しかけるまで、姉はそうしていた。無遠慮に話しかけたとおもったら、あいまいな言葉で慰めていた。その姿を見て、姉にかける言葉を持たなかった私は、ほっとしたような、情けないような気持ちになり、より一層姉に声をかけることができなくなってしまった。先生は、気が済むまで話すと、まあ次も頑張れ、と声をかけふらふらと事務室に戻って行ってしまった。すると、姉は唐突に振りむいて、気づかなかったよ、帰ろうか、とほほえんで、私に手を差しだした。長い間握りしめられていた姉の手は、いつもよりにじんだ熱をおびていた。


 次の日、水泳バッグのなかからカードがこつぜんと消えていた。

 いつも仕舞っていたカードケースはからっぽで、バッグのなかのどこを探しても見当たらなかった。なにか物をなくしてしまった時、世界の隙間に落としてしまったように、もう二度と見つからないという確信してしまう時がある。きらいだったスイミングスクールのカードが世界の隙間に落ちてようが、机の隙間に落ちてようが、私にとってどうでもよかったが、母にはひどく叱られてしまった。無くしてしまったことを姉に告げた。

「もう、スイミングスクール、いけないね」

 しずかな声だった。姉のまなざしには、いつものやさしさと、ひと握りの憐れみがにじんでいた。

 いつのまにかうしなわれたカード。真新しい、コバルトブルーのカードだ。







 激しい音を立てていた扇風機は、いつのまにか動かなくなっていた。

 いやな夢を見てしまったように、背がじっとりとぬれていた。畳のいぐさが、足の裏に刺さる。姉が気に入っていた、まるい目覚ましどけいの秒針の音がいやに大きく聞こえた。

 私は、まるで刃物で切ったようなカードの切れ目を、指でなぞった。コバルトブルーカードと、ハサミを持つ姉のちいさな手を想像した。銀色の刃とカードが触れあうと、カチリ、と虫の羽音のようにちいさな音がするのだろう。ハサミと、こんななんの価値もないカードを持って立ち尽くすおさない体躯や、日に透けるすこし傷んだあかい髪もなにもかも想像できたが、たったひとつ、表情だけはまるで空洞のようにぽっかりと空いていた。私は、姉のやさしい顔しか見たことがなかった。それ以外の顔をみる前に、彼女は私たちの前から消えてしまった。

 彼女は、どのようなまなざしで、自分自身に芽吹いた悪意を見つめていたのだろうか。本当は、あの時後ろにたつ私に気づいていたのかもしれない。本当は、慰められたくなんてなかったのかもしれない。結局、カードを切ることができずに押入れの奥に押し込んでしまった、姉の拭いきれないかなしい正しさに、どうしようもない息苦しさを感じた。

 


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