どうしても、孤独からは逃れられないという事実と理由について
「丸い月」というものを誰かと一緒に見たとして、その月を「丸い」「きれいだ」と思う感覚は同じだったとしても、相手にとって見えているそれは、私が見ている「丸い」とは違うのではないか、と、思っている。
音楽を聞いていると、その音がすべて「ドレミファソラシド」で耳に入ってくる……ということが世間一般的に「絶対音感」と呼ぶのだと知ったのはここ数年のことで、それまでは、世界中の人が共通して、同じように音階で音を捉えているのだと思っていた。
どんなに賢い人でも絶対に解明できないことは「死んだあとに人はどうなるか?」だけだと考えていたけれど、「他人が感じている世界」というのも、死後の世界と同じくらい不可解で、どうやっても絶対にわかりえないことだよなあ、と、思う。
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ダイバーシティの文脈が世の中に増えたからかどうなのかはわからないけれど、「人はわかりあえない」という言葉を、最近、よく聞くようになった。
私自身、今年の夏から秋の終わり頃まで、「わかりあえない人たちと、どうやって一緒にうまくやっていけばいいのか?」ということに興味を持ち、サイボウズ式で特集企画を組んだりしていた。
けれど、そもそもどうして人は「わかりあえない」と感じるのか? ということについては、そこまで深く考えていなかったなあ、と思う。
そして、先ほど言った「他人が感じている世界は絶対に知ることができない」という事実こそが、人がいつだって孤独でありつづけてしまう理由なのかもしれない、とふと感じた、のだ。
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小学生のころ、はじめてコンタクトをつけたとき、「世界はこんなにクリアだったのか」と衝撃を受けたと同時に、「こんな世界を感じながら生きている人がいたのか」と思った。
幼い頃、お父さんが肩車してくれたときに見えた世界は、子どもの私が見ていたそれと、当たり前だけど全然ちがうものだった。
誰かの目は、どうやったって経験できない。誰かの鼻も、誰かの耳も、誰かが感じている感触も、誰かが感じている温度やぬくもりも。どうやったって「誰かの感じている世界」は知りえないし、「私の感じている世界」だって誰も知りえない。
私が持つこの感覚のすべてが生きているということならば、そのすべてを自分1人で味わわなければいけないというその事実って、実はめちゃくちゃ孤独な事実だよなあ、と思うのです。
おいしいもの、きれいなもの、楽しいこと、悲しいこと。誰かと何かを共有するのはすごく素晴らしく「人はひとりじゃない」と錯覚することもあるけれど、やっぱり人はひとりで、孤独な生き物であると、ことあるごとに思ってしまう。
こんなことを言ったらファンタジックなロマンティストだとか思われてしまうかもしれないけれど、本気で一度、他人の感覚で人生を生きてみたい、と思う、木曜日の夜。今日は、ふたご座流星群みたいです。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。