「勘違い」ができる大人のかっこよさ、について
自分の不確定な未来に対して「勘違い」ができる大人はかっこいいな、と、今日行ったクリープハイプのライブで、尾崎世界観さんが言った言葉を聞いて、そう思った。
「歌だけでいつか飯が食えるようになるって、そんなとんでもない勘違いをしながら、これまで生きてきました。その勘違いが現実になっている今が、夢のようで。これからも、勘違いをして、生きていきたいと思います」
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「勘違い」には、「他人に対してのもの」と、「自分に対してのもの」があるのだ、と思う。
「他人に対しての勘違い」は、あの人はきっと私の期待に答えてくれるはずだとか、あの人はきっと私のことが好きなはずだとか、他人に対しての思い込み、のこと。
そして「自分に対しての勘違い」は、私は絶対にテストで100点が取れる、とか、私ならこの無理難題でもこなせるはずだ、とか、自分に対しての思い込みのこと、だ。
私は、自分自身が傷つくことがイヤな弱い人間なので、「他人に対しての勘違い」は、あまりしたくないなあ、と思っている。他人に対して、あまり過度な期待はしない。自分が傷つかないためのテリトリーは、いつだって用意をしている。
……けれど、「自分に対しての勘違い」は、なんというか、もっと積極的にしていきたいし、それで自分が傷つくのは全然怖くないな、と、思った。
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「勘違い」というのは結局のところ、何かを信じるということなんだろうな、と思う。
そしてその「勘違い」の方向が「他人」ではなく「自分」に向かっている大人は──「勘違い野郎」とはたから思われるくらいに自分の未来を信じて猪突猛進している大人は──、とてもかっこいいな、と、思った。
それがたとえ結果的に叶わなくて、本当に自分の勘違いに終わったとしても、自分自身に対して絶望を覚えたとしても、結果的に周りからは「口だけのやつ」に思われてしまったとしても、自分のそうなるであろう不確定な未来に対して「勘違い」できるというのは、間違いなくかっこいい強さだ。
漫画『ブルージャイアント』の大のように、自分の未来だけをただただ信じてひたすら前に突き進む人は、愛すべき勘違い野郎なのだ。
すべての「愛すべき勘違い」をしながら前を向き、努力をしている人たちに、祝杯を捧げたくなった金曜日の夜。家には缶ビールが6本もあります。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。