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あくまでも守りたい「わたし」という一人称について

大学は心理学部だったのだけれど、ずっと社会心理学が苦手だった。というよりも、人を、世の中を一般化しようとしてくるすべての学問に興味が持てなかった。

「こういう状況下では、人の心理はこう動きます」「人間とは、こういう生き物です」「社会とは、こういうものです」

スポットライト効果だとか単純接触効果だとかフットインザドアだとかカラーバス効果だとかそんなものは心底どうでもよく、そんな概論にまとめられない、個別具体的に動く誰かの心の方がよっぽどおもしろかった。そんな一般化された概論だけを知って「俺は人間の心理についてよく知ってるんだぜ」と知識をひけらかしてくる人には、なんの興味も持てなかった。



さいきん、誰かの文章(特に、世の中の多くの人に向けて発せられているような文章)を読むときは、文末に勝手ながら「と、私は考える。」を入れながら読んでいる。

誰かが発することばや文章に、「わたし」という一人称を超えた意味をもたせる必要はないし、また、できないのではないか、と思うのだ。

「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。」という有名な言葉でさえ、「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ、と私は考える。」なのである。

共感できなかったら、その人の考えと私の考えが一致しなかった。ただ、それだけのことだ。


ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。

完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びとの区別を、自動的につくり出してしまう。(岸政彦『 断片的なものの社会学』)


昨日読んだ、こちらの記事から。

働けない若者に受け入れられた「働かざるもの食うべからず」論(工藤啓) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/kudokei/20171031-00077618/

受け入れられないはずの言葉も、蛭子さんが言うとまったく異なる受け止められ方をする。イベント中はずっとその理由を探していた。そして後から気が付いたのは、蛭子さんはそれらの言葉をすべて「自分の話」の範囲を出ることなく使っていた。一般論や「べき」論ではなく、あくまでも「私」という一人称の考え、経験に留めている。(中略)

その考えを周囲に押し付けることもなく、同意も求めない。自分はそう考えて生きてきており、これからも継続していく。ただそれだけというものだ。


以前、茂木さんとナオコーラさんを取材した時に印象的だったことば。

新刊のエッセイ(『母ではなくて、親になる』)で、「母親だからと気負わずに、女性らしさに縛られず、ただの親としてやっていきたい」ということを書いているんですが、そうすると「女性らしい出産・育児の否定」みたいに受け取られることもあって。ああ、難しいなって思います。

私は、ほかの考えを否定したいわけではなくて、私の場合はこうだ、っていうのを書いているんですけれど。
いまはブロードキャスト(1人が不特定多数に発信する)的な社会だから。少数のブロードキャストする人がいて、その人の意見をみんなで受け取るだけ、みたいなイメージですよね。だから他人の意見にかみついてくるだけの人がいたり……。それは僕の考え方なんだから、って思います。


一般化されたことばたちは、誰かを傷つける。一方で、「わたし」の範囲を出ないことばたちは、誰も傷つけない。そして案外、「わたし」の範囲を出ないことばたちの方が、誰かの心に深く残り続けることができるのではないかな、とも思う。

そして、その視点を持つことが、いろんな人が個性を惜しみなく出すことができる世の中になるためのヒントだったりするのかな、と、私は思う。


このnoteだって、「人生ってこういうものだよなあ」とか書いたりするけど、それはあくまでも「わたし」という一人称の上に成り立っている思いたちなんだよな、と再認識する木曜日の夜。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。