どうしようもなく「境界線」に惹かれる
「人は、"境界線" に惹かれると思うんだよね」
1ヶ月ほど前の、とある土曜日のこと。休日らしくだらだらと遅めに起き、朝ごはんなのか昼ごはんなのかわからないようなごはんを食べ、最寄り駅までの道をいつものように歩いていると、隣で歩いていた人がぼそっとそのようなことを口にした。
数年前、沖縄で見た広い海と広い空の境界線に沈む夕日を見たときにそう思った、とその人は言う。
地平線に沈む夕日を見て「境界線」のことを思うなんていい感性をしているよなあ、と思いながら、私はうんうんと話を聞いていた。
そしてその時から、「何かと何かの境界線に心が揺れ動く瞬間」について、なんとなく思いを馳せるようになった。
たとえばそれは、恋愛のこと。付き合う前の、「彼氏彼女」という関係の境界線がはっきりしないそのじれったさやその楽しさ。
たとえばそれは、思春期だったあの頃のこと。大人と子供の境界線の狭間で揺れ動く、モラトリアムな自分に抱いていた複雑なその感情。
たとえばそれは、風が吹いた瞬間に感じる、私という個体のこと。体という私と世界の境界線が常に動きながら生きているいうその事実。
そんなことを考えていたときに、ふと『たたみかた』という雑誌で、下記のような一節に出会った。
人と人との間には必ず「境界線」があります。そもそも身体が「境界線」ですから。((長津結一郎)
この文章を読んだ時に、人が「境界線」に対して思いを馳せたり惹かれたりするのは、このことこそが起因してるのではないかなあ、ということをふと感じた。
人と人の間には必ず境界線がある。だからこそ、人は無意識的に自分と世界の「境界線」を感じずにはいられないようにできている。
時に人は水平線のようなクッキリとした境界線を求め、時に人はその境界線が曖昧になる瞬間に心を奪われる。
それはどうしたって、人は境界線というものを感じずには生きられないようにできてるからなんだよなあ、ということを思う。
クッキリとした境界線も、その境界線が曖昧になる瞬間も、どちらもきっと、「世界と自分の境界線を感じずにはいられない」瞬間なのだ。
その時々で自分がどんな境界線に惹かれるのか、ということは、今の自分を把握する上でのヒントになるのではないかな、と思う火曜日の夜でした。最近の日々は幸せだなあ。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。