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死んだことばは使わない

「死んだことば」は使わないように気をつけよう、と思った。

死んだことばというのは、流行が過ぎ去り時代遅れになってしまった、いわゆる「死語」のことではない。

『正しそうに見えることば、りこうそうに見える考え方、ほめられそうなことば、自分の価値を高めてくれそうな考え方、トクをしそうな考え方、敵を追いおとすためのことば、流行の考え方、仲間外れにならないためのことば』、その他もろもろの「ほんとうじゃないことば」のことである。

これらは、糸井重里さん・吉本隆明さんの『悪人正機』という、私が大好きな本の前書きに書かれていることだ。

「こどもたちが荒れているだとか、大人たちが迷っているだとか、かなり長いこと言われ続けている。解決のための処方箋を語る人々もたくさんいて、それぞれにもっともらしかったりするのだけれど、ぼくにはどうもピンとこない。
  
それは、ことばの使いかたや考え方の道すじが、どうにもウソ臭いからなのだと思う。正しそうに見えることば、りこうそうに見える考え方、ほめられそうなことば、自分の価値を高めてくれそうな考え方、トクをしそうな考え方、敵を追いおとすためのことば、流行の考え方、仲間外れにならないためのことば、そういうものばかりが目立ってしかたがない。」
「ほんとのことを言うのは、いちばん簡単なことなのに、それができなくなっているからことばがどんどん腐って死んでいく。死んだことばで書かれた説教も処方箋も、役には立たないし、生きていくにはじゃまなものだ。」


自分のフィルターを通して、ていねいに世界を見ることが大事だ」と思っていて、そのためにこれからも文章を書いていたいけれど、今現在の私がそこに通そうとしているのは「綺麗なもの」ばかりであること、綺麗なもの以外はなんだか通してはいけない、発信してはいけないような気がしていることに、この本を読んで、ふと気づいた。

もちろん、本当のことしか書いてはいないし、死んだことばは使っていないつもりなのだけれど、それでもなんだか「りこうそうに見える考え方」や「自分の価値を高めてくれそうな考え方」ばかりに目を向けようとしている自分がいて、もっと人間の(私の)本質であるドロドロと鬱屈したものや狂気的なものに向き合うことをなかなかしようとしていないな、と思った。

そういうものを通さずして、何が自分の感性をていねいに見つめるだよ、と、自分自身に対して思う(し、ある人に突っ込まれた)。


今は便利な世の中だから、綺麗なものだけを見ようとすれば、綺麗なものだけに触れようとしていれば、いくらでも綺麗に生きることができる。少なくとも、そういうふうに見せることができる。

綺麗じゃないものから目を背けた方が楽しく生きれるじゃないかという気持ちも、そういった、自分の綺麗じゃない部分を他人には見せたくない気持ちも、また見せる必要がないと思う気持ちも、痛いほどにわかる。だからこそ、たまに見つける「狂気にも素直な人」のことばを見つけると、心底惹かれてしまう自分がいる。そういうものを、文学や映画や音楽や芸術といった、ある種の特別な表現手法や分野に求めている自分がいる。

私は別に、綺麗な世界だけに興味があるわけではないのである。だったら、もっとちゃんと、そういったものたちも、自分のフィルターにちゃんと通して、ちゃんと書いていきたいなあ、となんだか真面目すぎる私はそう思った。

……ということで、このnoteも綺麗なものだけではなく、もっといろんなことについて書いていこうと思っています。そんな金曜日の夜。飲みに行きます。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。