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黒いおでんと、不安を飲み込んだ夜のこと【#記憶に残る呑み屋 01 高円寺「空き屋」】

2015年の4月。就職と同時に上京することになり、22年間住んだ地元の京都を離れ、人生で数回しか訪れたことのない東京という街が私の拠点になった。

はじめての街、はじめての一人暮らし、はじめての会社勤め。不安と緊張と期待と高揚感が複雑に入り混じり、慣れない生活をとにかく1日1日「こなす」ことで精一杯な毎日が続いた。休日になっても、自分の中では疲れを取ることが優先され、なかなか東京の街を探検する気にはなれなかった。

そんなある日、同じく就職を機に上京した大学時代の先輩から、こんなLINEが届いた。

「東京のおでんってさ、黒いねんで。知ってた?」

黒いおでん。メッセージをもう一度見返してみて、「え、ほんまですか?」と返す。関西では、おでんといえば昆布などの出汁と薄口醤油で味付けされた薄い色のものがスタンダードだったので、おでんが黒いだなんて想像もつかなかった。

おでんの話をきっかけに、仕事はどうだとか、東京生活はどうだとか、何往復かのメッセージをやりとりする。そして近況報告がてら、先輩の行きつけだという高円寺のおでん屋さんに行くことになった。

今日は、そうして出会った、高円寺のとあるおでん屋さんの話をしたいと思う。

高円寺の裏路地、と。

その日、JR高円寺駅の北口から徒歩2分ほどの場所にある狭くて薄暗い裏路地を、私は先輩と肩を並べて歩いていた。

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ネズミが排水溝の上を走っている姿が目の端っこに映る。裏路地においては、ネズミがいることは不衛生ではなく情緒が増す一要素なんだな……なんて口には到底出さない変なことを考えながら、はじめて歩く高円寺の街並みや、遅い時間からお酒を飲むという行為そのものに、私は心を踊らせていた。

20歳になるまで門限があったほど実家が厳しかった私にとって、「東京の終電の遅さ」や「どれだけ遅くなっても誰にも怒られない事実」は、自分を大人だと錯覚させるには十分だったのだ。

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裏路地を50mほど歩いて到着したのは、「sakava 空き家」というこじんまりとしたお店。店名の通り、古い民家の空き家を改装したらしい外観で、細長いカウンター席と、その奥に小さな2つのテーブル席が並んでいた。

「あまり人には教えたくない、お気に入りの場所で」と先輩はつぶやく。

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優しそうな男性の店員さんがふたりでお店を回していて、私たちはカウンター席に通された。

「生ビールふたつと、ダイコンと、水ナスと、はんぺん」

慣れているのだろう、先輩はまともにメニューを見ることもなくおでんを注文していった。「いい感じのお店ですね」と私が言うと、少し嬉しそうに先輩が笑う。

手書きのメニューが、とにかく可愛かった。値段もリーズナブルで頼みやすい。たくさんあるメニューの中から私が何を頼もうかな、と悩んでいると、ほどなくして生ビールとおでんが届いた。


「わ、ほんまや、黒い」


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東京のおでんは、私が22年間思っていたおでんの常識をいとも簡単に覆してしまうほどに黒かった。どれだけ味が濃いんだろうか、と訝しがっていたけれど、いざ口に運んでみると、色の濃さに反してほどよい味つけで、口の中に濃口醤油とみりんの甘さが広がっていく。

はじめて食べる、東京の黒いおでんのおいしさと、昔からの知人である先輩が隣にいる安心感からなのか。私の口からは、ぽつり、ぽつりと不安がこぼれていった。

はじめての一人暮らし、はじめての会社員生活に全然慣れないこと。東京にきて、うまくやっていけるかどうか不安なこと。毎日を過ごすのに精一杯で、全然余裕がないこと……。

「大丈夫やって」

先輩のそのセリフは、かつての自分もそうであった、でもきっと時間が経てば慣れていくものなんだ、そして私ならうまくやっていけるよ、というような言葉に続いていった。

慣れない東京生活の中、はじめて不安な気持ちを誰かに話し、その気持ちと一緒に食べた黒いおでん。

きっと、一番最初に見つけた東京での自分の「落ち着ける場所」として脳内が覚え込んだのだと思う。それからというもの、高円寺の「空き家」は、私がことあるごとに通う、東京の大好きなお店になっていった。


「意味」ではなく「エピソード」として残る記憶

「空き家」は私にとって、記憶に残るお店だな──。そんなことをぼんやり考えていたとき、大学で学んだ心理学の「記憶」についての話を思い出した。

記憶には、長期記憶と短期記憶のほかにも2つの種類が存在するらしい。それは「意味」として残る記憶と、「エピソード」として残る記憶だ。

「あのお店の餃子がすごく美味しい」とか「店主のキャラクターが濃い」などといった、何かしらの象徴で脳に残る記憶が「意味記憶」なのに対して、「悔しい思いをして泣きながら食べた餃子」とか「彼氏に告白されたレストラン」などといった、場所やメニューに思い出としてのエピソードが紐づいて脳に残る記憶が「エピソード記憶」だという。

そして、人はエピソード記憶の方が、濃く、深く覚えていることが多いそうなのだ。

それを思い出したとき、ああ、「空き家」には、たしかに私の思い出に残るエピソードがたくさん染みついている、ということを感じた。

仕事がうまくいかなくて落ち込み、仲良しの後輩に話を聞いてもらったこと。恋人とデートした帰りに一杯だけと言って立ち寄ったら思いも寄らず食べすぎ飲みすぎてしまい、ゲラゲラと笑いながら酔っ払って帰ったこと。社会人になってからできた気の置けない仲間たちと終電を超えてまで夜な夜な飲んだこと。

きっと、口コミサイトなど、ネットで調べられるのは「味のおいしさ」や「サービスの良さ」などといった、意味でしかない。けれど、ネットで調べられないものこそが、そのお店が自分にとって記憶に残るために必要なものなのだ。

たとえどんなに美味しいお店であったとしても、思い出に残るエピソードにはかなわない──、そんなことを、ふと思う。

そこに通い、自分のエピソードが積み重なっているお店は、きっとどんなに評価が高くて美味しいお店よりも、自分にとって思い出の深い、大切なお店になっていくのではないだろうか。

私の東京、記憶に残る店のひとつは、間違いなく高円寺の「空き家」だ。きっと、いつか私が東京を離れることになったとしても、いつかこのお店がなくなってしまったとしても、黒いおでんとそれに紐づくエピソードは、私の記憶の中に生き続けていくのだろうな、と思っている。

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今回紹介するお店


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。