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定見をもたないという定見

そもそも私は、ものごとに対する定見というものを持てないたちなのである。定見を持たぬ人間は、たとえば「広い心、しなやかな生き方」という姿勢を持つ者として全うすることもありうるが、通常は「優柔不断・おしきられやすい」者としてうろうろと生きてゆくばかりであることが多い。

川上弘美『おめでとう』より


たしか大学1年生の頃だったろうか。川上弘美さんの『おめでとう』という小説の中にあるこの一節を読んだとき、「ああ、私のことだ」と思ったことを、今でもまだしっかりと覚えている。


幼い頃から、私はよく友人に「明石はほんまに流されやすい性格やんなあ。自分の意見がないよなあ」と言われていた。そしてそれは、上記でいうところの「広い心、しなやかな生き方」として良い方向に働くこともあったし、また、上記でいうところの「優柔不断・おしきられやすい」性格として、うっとうしがられることもあった。

当時の自分は、ずっと「だって、そんなの、何が正解かわからへんやん」と思っていた。いろんな人の意見を聞くと、そのいろんな人の意見の数だけ、「たしかにその考え方も別の視点から考えるとアリだよなあ」と思っていたし、いろんな誘いを受けるたびに、「その世界に飛び込んだら何が見えるのだろうか」とついフラフラ飛び込むことを楽しんでいた。

逆にみんながどういう判断基準で、どういう理由で確固たる主張をし、決断を下しているのか、その方が不思議でならなかった。「自分の人生や意見を"こうだ"と決めつけるにはまだ私たちは子供すぎるでしょう?」とか、ませたことを本気で思っていた(決して言葉にしなかったけれど)。

大学生までは、本や、アルバイトで出会う大人たちから、「人にはそれぞれの価値観があるんだな」「こんな意見もあるのか」「この世には、起こりえないことなんてないんだな」ということを知ることが、私にとって大げさだけれど生きる楽しみだった。



定見をはじめて持つようになったのは、やはり就職活動をして、仕事をはじめてからだな、と思う。

責任を持つ。目的意識を大切にする。モヤモヤしたことをそのままにしない。仕事は「受ける」のではなく「取りに行く」。好奇心は放っておかない。感性を磨くことを何よりも大事にする。

定見を持つようになったというよりかは、自分が拠り所となる考えがないと、毎日仕事をする中でやってくる「小さな決断」をこなすことができないことに気づき、自然とできあがったようにも思う。

ほぼ日さんの「やさしく、つよく、おもしろく」なんかは、最高の定見だよなあ。


これらのことをつらつらと考えながら、でも私が生きる上でいちばん大切にしたい意見はやはり、「この世の中には、起こりえないことなんて何ひとつないんだ」という、「定見をもたない姿勢を大事にする」ということなのだ。

絶対なんて絶対ないんだよというパラドクスと同じように、私は「定見を持たないという定見」をもって生きていたい、と思う火曜日の夜。



ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。