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「自分と似ている人」について

幼い頃から、「自分と似ている人のことを、好きになれるか・なれないか問題」というのは、人間関係が発生する、ありとあらゆる場所についてまわった。

ちょっと苦手なあの子が、自分と似ていると気づいてしまったときの、なんだか心の端っこが痒くなるようなあの感覚は、大人になった今も、たまに感じるときがある。

一方で、「自分と似ている」からこそ、誰かを好きになれることだってあった。「類友」という言葉がこの世に存在するように、それらのグループでは、「私たちって本当に似てるよねー!」というそのセリフが、まるでその友情を確固たるものにする合言葉のように、作用していた。

私は昔から、友だちに「目の奥底が笑っていない」とか「反応に感情が込もっていない」とからかわられることが多かった。

自分では本当におもしろいな、素敵だな、と心底思っているにも関わらず、笑い方なのか声の性質なのか、目の作りなのか原因は自分でもわからないけれど、とにかく相手から見ると、私の反応のあれやこれやは、どうやら嘘っぽく見えてしまうらしい。

ただ、「あかしってほんまに感情込もらへんよなあ(笑)」というその「イジリ」は、軽いジョークだとわかっていたので別に嫌ではなかったし、むしろ私にとってはひとつの大切なコミュニケーションのようなものだった。

先日、友人知人とゆるい旅行へ出かけたとき、同じような性質を持っている友だちがいた。その子が笑ったり感動したりすると、なぜだろう、なんだかすごく嘘っぽく見えてしまうのだ(ごめんなさい)。でも本人曰く「本当に思っている」そうで、それは私が今まで言われてきたことと、すごく似ていた。

周りの人も、「本当に嘘っぽいよねー(笑)」と、愛を持ってその子をからかう。そのときに、私はひとつの「個性」が、その場所においては消えてしまったような気がしたのだった。

そのときに感じたのは、自分と似ている人のことを好きになれないのは、「自分の存在(個性)が脅かされるような気がするから」なのかもしれない、ということ。

もちろん、上記の例のような小さなことで人のことを苦手になったりはしないけれど、これがもっと重大な自分のアイデンティティに関することだったら、どうなのかはわからない。

逆に、自分と似ている人のことを好きになれるのは、「自分の存在(個性)が脅かされない」場合なのだと思う。だからこそ、似ている人同士だけの場所においては、相手のことを好きになれるんだろう。

今まで自分がそうであると思っていた個性が、誰かに取って変わられてしまうかもしれない──そんな「恐怖」にも似た感情が、きっと「苦手」という感情を呼び起こしているのではないかな、と思う。

個性は絶対的なものである、ポジションなんてないとわかりつつ、やっぱり人間関係は、相対的なものでできていることもまた事実。自分が意図しないところで、誰かに比べられたりすると、やっぱりしんどくなることだってある。

私はまだまだ自信がない、弱い生き物なので、最近は「自分と似ている人」に出会ったら、会う場所や環境を選ぶようにしている。その人のことを、無理なく「好きでいられる場所」を、選ぶようにしている──そうするようになってから、自分の醜い感情が、驚くほど減ったことを感じるのだ。

できるだけ、人に対して前向きな気持ちでいたいと思う。だから、そういられるような「距離の取り方」を自分で選ぶことも、大切ではないのかな、と思う日曜日の夜なのでした。夏がはじまった〜!

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。