見出し画像

世界は、思った以上に「欠けている」ことに寛容だ

大学生のころ、個人経営のこじんまりとしたカフェでアルバイトをしていた。京都の裏路地にある、ゆみこさんという美人なオーナーが経営している、とてもいいカフェだった。

ゆみこさんは私の20歳の誕生日に、『ぼくを探しに』という絵本をプレゼントしてくれた。

パックマンのような可愛い球体の「ぼく」は、自分には何かが欠けていて、だから毎日が楽しくないと思っている。そこで完璧な球体を目指そうと、自分の欠けたカケラを探しに冒険に出かける……というお話だ。

一度は自分にぴったり合うカケラが見つかって「ぼく」は完璧な球体になるのだけれど、いざ完璧な球体になってみると、思った以上に早く転がりすぎてしまう。そうすると、花の香りを嗅いだり、蝶々とのたわむれを楽しんだり、といった、今まではムダだと思ってきたことができなくなって、日常生活にあるささやかなできごとを見つめるための「欠けた部分」の大切さに気付く。

そして、「そうか、欠けたままのぼくでいいんだ」と、そっとそのカケラを外すところで、物語は終わる。

いろいろな解釈があるとは思うのだけれど、この絵本を初めて読んだとき、「完璧じゃなくて、どこか欠けている方が、何か足りない方が、人生は楽しく味わい深いものになるんだろうな」、ということを思った。


さいきん読んだ本の中に、武田砂鉄さんの『コンプレックス文化論』というものがある。

この本は、本の帯にもあるように、天然パーマや背の低さ、ハゲなど、コンプレックス……つまり人の「欠けている部分」こそが文化をつくってきたのではないかと考察したものである。

あとがきで武田さんは、

引きずることから切実な表現が生まれる、ということを知らせるために、コンプレックスをしつこく研究し、しつこく問いかけてみた。

この本を読んで、対象となったコンプレックスを解消してください、なんて露ほども思わない。外からの申し立てによって解消できるはずなんてないのだ。こちらからのメッセージがあるとするならば、どうぞそのまま継続してください、くらいのもの。

と書いている。


私が大好きでいつも読んでいるWebの連載に、戸田真琴さんという女優さんが書かれている映画コラムがある(本当に毎回泣けるほどよいコラム)。

先日更新されたそのコラムの内容が「コンプレックスについて」で、その中の戸田さんの下記の言葉に、ひどく共感した。

自分の外見にも中身にも、好きなところと嫌いなところがあって、その両方を同時に感じるところだってあって、他人の言葉で簡単にそれは反転したりもしながら、追い風や逆風にゆれながら、決して極端に全部を塗りつぶしてしまわぬように、うまくグラグラと一緒に生きてゆきたいです。

せっかく生まれてきたのだから、グラグラ揺れながら折れないくらいでいた方が、たくさんの感情を知れるぶん、お得なような気すらするのです。



これらの本やコラムを読んだり、いろんな人たちと話したりして思うのは、世界は、思った以上に「欠けている」ことに寛容だ、ということだ。

だれも人のことを完璧だなんて思っていないし、完璧でいてほしいなんて思っていない。「完璧でいたい」「欠けた自分が嫌だ」と思うのなんて、いつだってきっと自分だけなんだ、と思う。

世界は思ったより寛容さと愛で満ちあふれている、とさいきんすごく感じる。欠けている部分こそが、その人の持つ個性であり、人生の転がり方を決めるものであり、その人の世界に対する価値観を決めるものなんじゃないかな、と思うのだ。

私自身もかなり「欠けている」とは思うけれど、その欠けた自分を愛しながら毎日を生きていたいな、と思う土曜日の夜。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。