人間、人間くさくあれ。
「言われて嬉しいことば」というものは、誰にでもある。
それは、ある人にとっては「センスがいい」ということばかもしれないし、またある人にとっては「可愛い」ということばかもしれない。「賢い」や「一緒にいると落ち着く」かもしれないし、「きみ、変わってるね」というちょっと変わったことばかもしれない。とにもかくにも、言われて嬉しい一言というのは、どんな人にだって存在するんじゃないかな、と、思っている。
私はというと、もちろん褒めてくれることばは何だって(それがお世辞や美辞麗句ではない時には)嬉しいのだけれど、今でもくっきりと覚えているのは「あかしって、人間くさいよな」、という言葉だった。
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思い返すと、「人間くさい」と言われたことは今までにも何度かあった。でも、「人間くさい」って何だろう? ということについて、ちゃんと考えてみたことはあまりなかった、のだ。
人間くさい。
そう聞いて、自分の中に思い浮かぶ人たちや、映画または小説などがある。
酒、タバコ、セックス、その他どうしようもなく欲望に純粋に生きている友達や、「世の中をモノクロで見つつも、そこに色を足していく」人々、穂村弘さんや早川義夫さん、中島らもさんのエッセイたち、や、最近観た『勝手にふるえてろ』、名作であるダスティン・ホフマン主演の『卒業』などの数多くの映画、である。
なんだろう。これらに共通するものが、「人間くささ」なんだろうか。
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そんなことを思っているときに、糸井重里さんの下記のことばを、ふと思い出した。
こころなんてものがあるから、めんどくさい。みんなが、それで苦しんでじたばたしているのだが、どんなにすかっとしたくても、割り切っちゃだめだ。こころの面倒を、引き受けないと、いけないんだ。
いつかの『今日のダーリン』より
このことばがふと浮かんだとき、あ、これだな、と思った。人間くささとは、「こころの面倒を引き受けているか否か」なのか、と。
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしょ」などと頑張っている女の子より、美の企画を外れた鼻に絶望して、人生を呪っている女の子のほうを愛します。それが「生きている」ということだからです。
三島由紀夫『行動学入門』より
そうだ、人間くさいとはすなわち人間らしくあるかどうか。人間らしくあるかどうかとはすなわち、自分の感情を割り切ってしまっていないか、ということなんだ、と思った。だって人間は、「こころ」つまり「感情」があるから人間、なのである。
割り切った方が楽なこと、道徳的や世間的に正しいとわかっていること、自分の力ではどうしようもならない運命のようなもの。そんな「どうしようもないこと」に対して、時には割り切れずに怒り、時には間違ってしまう自分を悔やみ、時には自分の運命を嘆き呪ってしまうような自分の「こころ」に正直であること。
それが「人間くさい」ということなんだろう、と、なんとなく思った。
「機械(ロボット、コンピューター、AI)が、できることは、どんどん機械にまかせたらいい。人間は、機械にできない創造的なことをやるべきだ」という考えには無理があると思うんです。
そんなに見え見えのクリエイティブなことなんてない。そうでなく、ぼくは思うのですが、「機械にできることのなかから、人間がやりたいこと、人間が好きなことを、返却してもらって、それをたのしくやっていく」ことが、これからの仕事、市場、働き方をつくっていくのです。
機械にやってもらっているままいいという場合は、そのまま、機械にお願いしましょう。でも、「それ、わたしがやりたい」ということは、機械にやらせておくのは、もったいない。上手下手、効率、そんな判断はする必要はないんです。人がやりたいこと、人にしてほしいことは、人がしたほうが価値が高いということですよね。
2018年1月1日の『今日のダーリン』より
人間、人間くさくあれ。それがとても大事なことなのではないかなと思う、曜日がわからなくなった三ヶ日の真ん中の夜。今日はスーパームーンみたいです。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。