人の気持ちなど100%は理解しきれず、ただモヤモヤだけが残った。
会社で、研修中の新入社員がイヤホンをつけて仕事をしていた。それを受けて、「新人が業務中にイヤホンをつけて仕事をすること」について、社内でちょっとした議論になった。
前提を言っておくと、私の会社は基本的に自由で、社員それぞれの個性を重んじているので、個人の行動は個人の責任に任されている。「絶対に◎◎しなくてはいけない」というルールはあまりない。
だからもちろん「イヤホンをしながら仕事すること」について、「いい」と思う人も「不快だ」と思う人もいろんな感覚の人々がいた。それはそれで、どれも正しく、どれもよいとは思う。
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私はこの一連の流れで、「業務中にイヤホンつけたって別にいいじゃないか」と思っていた。
「新人がイヤホンをつけるのはどうなのか?」という意見を持つ人の気持ちが理解できなかった。イヤホンをしているかどうかは仕事の本質には関係ないし、それで作業効率が上がるのであれば、新人研修の間でも、別にいいじゃないか。
だからこそ、「イヤホンをつけるのはどうなのか?」と言った人が、どうしてイヤホンをつけながら仕事する人のことを不快に感じるのか、理由を自分なりに理解したいと思った。ちゃんと相手の気持ちを詳細まで理解することが、「相手を受け入れること」につながると思ったからだ。
結果、もちろん人の気持ちなど100%は理解しきれず、ただモヤモヤだけが残った。
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このように、自分とは意見や価値観が違う人がいたとき、受け入れるために、人は(すくなくとも私は)相手のことを「理解」しようとする。けれど、理解できなかったり、受け入れられなかったりすることは、悲しいかなどうしてもある。そうすると、しんどくなる。理解できない自分が、心が小さいヤツなんじゃないか、とか思ってしまう。
そして、「多様性」と叫ばれているこの時代、わかりあえない人ってどんどん増えているんじゃないだろうか。もっといえば、そもそも人ってわかりあえないんじゃないか。
どうしたらいいんだろう、どうやったら人のことをちゃんと理解でき、受け入れられるようになるのだろうと思って、この現象について、いろいろな人に会って、話を聞いてみて、自分なりに、考えてみることにした。
そして、それらを通じて、
・「人のことを理解しようとする感覚」って、必要ないのかも。
・他人の考えや、価値観や、存在に対して、自分の感覚で「いい」とか「悪い」とか、価値判断をしない方がよいなあ。
・自分とは違う価値観に触れることは、「自分はどうだったっけ?」と、自分を分析するためのいい判断材料になる。
・「ただそこにあるもの」として相手を認め、自分との違いを面白がることで、世の中はもっと楽しくなるのかもしれない。
こんなふうに考えるようになった。
相手のことを、本質的に理解するのはムリだ。たぶん、母親だって、彼氏だって、ムリだ。だって、これまでの生き方も、これまでの経験も、出会ってきた人々も、立場も、感受性も、考え方も、ぜんぜん違うのだから。
自分と違う価値観をもつ人のことを、「理解する」のではなく、「認める」。そういう感覚が、世の中をおもしろがるヒントなのかもしれない、と、今では思います。
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近日中に、いろいろ会って話を聞いた人たちのインタビュー記事を、サイボウズ式にて公開します。ぜひ読んでいただけるとうれしいです!
サイボウズ式 | 「新しい価値を生み出すチーム」のための、コラボレーションとITの情報サイト
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(10/3 追記)特集ページがオープンしました。
多様性は大切だけど、わかりあう必要ってあるの? | サイボウズ式
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/inclusion/
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。