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人はいつかは子どもだった。

本の後書きが好きだなあ、ということをぼんやり考えていて、ふと思い出したことがあった。

それは、私が好きな2冊の本のこと。山崎ナオコーラさんの「論理と感性は相反しない」という小説と、角田光代さんの「愛してるなんていうわけないだろ」というエッセイ。この2つの本の後書きが、すごく似ていると思ったことがある、ということだ。

こちらは、山崎ナオコーラさんの後書きより。

この小説を、久しぶりに読み直したら、ひたすら恥ずかしくなった。いわゆる、若書き、というのだろうか、今だったら使わないまだるっこしい言い回し、今だったらこんな幼稚な描き方はしなかったであろうモチーフ、それらが並んでいる。(中略)
二十代の頃の、ふざけ盛りの感性は、片鱗も残っていない。可愛い文章は、もう書けません。

そしてこちらは、角田光代さんの後書き。

だから、本当のことをいえば、十年前のこのエッセイを読み返して私はかなり恥ずかしい想いを味わった。このエッセイを書いている私は相当にいきおいこんでいて、真剣で、ひたむきである。そのいきおいこみかたやひたむきさ加減は、今の私のなかにはもうないしろもので、あったとしても形を変えていて、恥ずかしくなるのはきっとそのせいだ。

似ている。非常に似ている。 文章や表現はもちろん違うのだけど、昔書いた文章を読んでみて「若かったなあ、今はもう書けないんだ、恥ずかしい」と思う感覚は、作家さんやライターさんはよく感じることなのかな、と思った。

人には、その時にしか味わうことのできない気持ちがある。あとになって思い返してみれば恥ずかしいようなことでも、その時の自分にとったら人生を変えてしまうのではないかと思うような、そんな気持ち。

そして、それらの「いつかは消えてしまう感性」を言葉にして記すことは、なんだかとても大切で、すごいことなんだなあと思う。

ブロガーさんやライターさんに文章を書いてもらうとき、その人が「今、大切にされている素敵な感性」を引き出せたらいいな。あの人はああいう人だ、みたいな社会の評判とかレッテルは抜きにして、私が感じるその人の素敵な感性や良さ、みたいなものを、引き出せる人でありたい。

この文章も、いつか歳をとった私が読んだら「ああ、子どもだったなぁ」といって笑うんだろうなあ。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。