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100%を1人に愛されるより、20%を5人に愛されたい

高校3年生のとき、同級生の男の子に、割と真剣にこんな相談をされたことがある。

「すべてを受け入れてくれる友達か彼女を作るには、どうしたらいいと思う? 誰でもいいから、おれの悪いところもいいところも100%受け入れてくれる人がいないと、死んでしまいそうや。」

人気のない放課後の生徒会室で、たしか季節は秋だったと思う。仲の良かったその男の子は、うなだれながらぼそっとつぶやくようにそう言った。普段は元気でやんちゃばかりするような人だったので、そんなことをいきなり言われてすごく驚いたのを、覚えている。

その時私は、たしかこんな答えをした。

「人っていうのは、1人の人にすべてを受け入れてもらわへん方がいいんやと思う。友達でも、恋愛について相談ができる友達、進路について相談できる友達、家族について相談できる友達、なんとなく、ちょっとずつ違うやん? どんなに仲良くても、どうしても話せへんことがあったりするやん。そういう風に、自分っていう100%の物体を、20%とか30%ずつ、いろんな人にいろんな部分を受け入れてもらって、合計して100%になればいいやん。100%を1人に受け入れてもらったとして、その受け入れてくれた人に裏切られたら、しんどいやん」

100%受け入れてくれた人に裏切られたら、しんどいやん──。こう答えながら、なんて自分は冷めた人間なんだろう、と高校生ながらにして思っていた。そして、考えがあまり変わらない自分に、今も冷めた人間だな、と思っている。100%人に受け入れてもらいたいと思った経験が、私にはない。

もちろん承認欲求はあって、好きな人には自分のダメな部分も受け入れてほしいと思うし、会社の上司には頑張ってるねって言ってほしい。親にも認められたいし、友達にだって好かれたい。

けれど、どんなに付き合いが長い人にも見せられない顔は絶対にあって、それを受け入れてもらおうとするなんて、到底思えないのだ。そして、付き合いが長い人に絶対に見せられないその顔を、ふとした瞬間に、初対面の人に見せられちゃったりするのだ。

……という風に、ずっと自分のことを「冷めた人間」だと思っていた。

でも、サイボウズ式のこちらの記事を読んでからは、それって「冷めてる」のではなく「自立してる」ってことなんだ、と、私の中でパラダイムシフトが起きた。

もっとたくさんの相手に・少しずつ依存している人は、それぞれの相手の顔色を窺う度合いも、コントロール願望が首をもたげてくる危険性も少なくて済みます。たくさんの相手に少しずつ頼るような依存なら、少しずつ返すだけでギブアンドテイクの帳尻も合いますし、万が一、どれかの関係が壊れてしまったとしても決定的なダメージにはなりません。

わたしは、いわゆる「自立している人」の正体とは、これではないかと思っています。たくさんの相手と少しずつ依存しあっている人は、“重たい”関係に陥りにくく、ギブアンドテイクな関係もつくりやすく、相互依存のリスクヘッジがききやすい――こういったアドバンテージを確立している状態が、他人には「自立している人」という印象を与えるのではないでしょうか。

100%を1人に愛されるより、20%を5人に愛されたい。その方が、傷つかずに済むから。相互依存は、こわい。もしその人がいなくなったら、どうしようもなくなってしまうじゃないか、と思ってしまう。きっと傷つくのが怖いから、臆病だからこういう考えなんだろうな、と思う。自立してることって強いように思われがちだけど、実は自立してることと臆病なことは、紙一重だ。

いついかなる時も「自立している人」であり続けるのは、それはそれでしんどいものですし、人間がはじめから「自立している人」として生まれてくるわけではない、という事実を忘れてはいけないように思われるのです。

こう文中にもあるように、人に依存して、依存されて、自立して、これからも生きていきたいなと思う月曜日の夜でした。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。