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断片的なものに内包される物語を。

3ヶ月前、鍵をなくして、家に入れなくなったことがあった。



鍵屋さんを呼んで見てもらったところ(1時間も待った!)、私の家の鍵は特殊な形をしているらしく、開けるのに4万円かかると言われて発狂し、けっきょく妹の家まで行くことになった。

深夜0時、絶望と共に乗り合わせた電車の中でふと自分の両手を見ると、そのとき玄関の取っ手にかかっていた傘を4本すべて持っていることに気づく。

きっと、鍵穴を見てもらうときにジャマだから、とりあえず外して自分で持っておいたのだろう。傘を4本も玄関の取っ手にかけっぱなしにするのも阿呆だし、そのまま絶望感に駆られてマンションを飛び出すなんてもっと阿呆だ。

阿呆。阿呆。と自分に言いながら、人間とはつくづく滑稽なものだな、と、思った。


はたから見ると、私は「晴れているのに傘を4本も持っている変な女(しかも深夜0時に)」だっただろうな、と思う。こっちからしてみれば、すべては物語的につながっているし、あの絶望感の中で傘を4本持つことは、別に何ら変哲も無いことだった。

その時に、ふと「ああ、断片的なものの面白さがここにあるなあ」と思った。岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を思い出したのだ。



断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片に、強く惹かれるときがある。

そしてもちろん、調査という仕事でなくても、日常的な暮らしのなかで、そのような欠片たちと、よく出会うことがある。分析も一般化もできないような、これらの「小さなものたち」に、こちらの側から過剰な意味を勝手に与えることはできないけれど、それでもそれらには独特の輝きがあり、そこから新たな創造がはじまり、また別の物語が紡がれていく。


「断片的なもの」は本当におもしろい、と思う。Twitterのタイムラインに突拍子もなく流れてくる「無になりたい」という文字の羅列や、朝の通勤電車で右目しか化粧をしていない女性、ゴミ置き場に置いてある「いつの時代だよ」とつい突っ込みたくなるようなポルノ雑誌、街のあちこちで見かけるトマソンたち。

それらは、私にとってどうしようもなく無意味なのだけれど、それらはどうしようもなく魅力的である。そこにひそむ誰かの物語、その無意味な出会いの連続こそが人生だったりするのかなあ、とか思ったりする。そして、その無意味なものが連続していくうちに、いつか自分にとって意味のあることにつながったりするのかもしれない、と思うのだ。

いつだって断片的なものを探しながら、それらに内包される物語が持つ意味を、また無意味を考えて、おもしろく生きていたいなと思う水曜日の夜。


私たちの自己や世界は、物語を語るだけでなく、物語によってつくられる。そうした物語はとつぜん中断され、引き裂かれることがある。また、物語は、ときにそれ自体が破綻し、他の物語と葛藤し、矛盾をひきおこす。

物語は、「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され、引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを覗き込んでいるのかもしれない。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。