見出し画像

並行世界

何かを得るためには何かを失わなくてはならない

私がかつて愛読していた『世界から猫が消えたなら』という小説に幾度となく出てくる言葉である。

「何かを得るためには何かを失わなくてはならない」というのは果たして本当なのだろうか。その本を初めて読んだ当時、つまり6年ほど前からそんなことずっと疑問に思っていた。

そして最近、なんとなく、その問いの答えに近づけたような気がする。

かつての私は「何かを得るためには何かを失わなくてはならない」という言葉が意味するのは、例えば普段の消費行動(商品←金銭)であったり、労働(金銭←時間・体力)であったり、そういう単純なものだと考えていたのだ。

また、「天は二物を与えず」という言葉もあるが、周りを見渡せば二物以上を与えられているような人間はいるし、「二兎を追う者は一兎をも得ず」とは言っても、努力をすれば二兎を追って二兎どころだけでなく三兎や四兎などを得ることもできるだろう、などと考えていた。

しかし、「何かを得るためには何かを得るためには何かを失わなくてはならない」という言葉の対偶にあるのは「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉であると考えてしまったところに落とし穴があったのではないかと思う。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉は、基本的に、現在から未来に至るまでの過程でほぼ同じ時間軸に存在する2つの異なる物事についての言葉であると解釈しているが、「何かを得るためには何かを失わなくてはならない」という言葉は必ずしもそのような物事に対するものではないのではないか。

どれだけ多くのものを手にしているように見える人間も、現在に至るまで確かに失ったもの、そして我々が今この瞬間にも失い続けているもの、「選ばなかったほうの未来」である。

例えば、A,Bというふたつの選択肢が目の前にあり、どうにかこうにかAとBの両方を手に入れたところで、「AとBを手に入れなかった」という事実は手に入らない。
「何かを選ぶ」ということは、「何かを選ばないことを選ぶ」ということと同義なのだ。
そして、人生における幾多の選択のなかで、たとえそれが無意識であったとしても、「選択しなかった」ものが生まれるのは変わりようのない事実なのである。

「自分の選んだ道は正しかったのだ」と歩いている人を見ると、つよい人だな、と思う。選ばなかったほうの過去を受け入れて歩いているのか、はたまた気づいていないのかは分からないが、「自分の選んだ道は正しい」と胸を張って言える人が羨ましいと思う。

選択しなかったほう、できなかった過去が、そして未来が、ときどき眩しくて眩しくて仕方なくなる。もし仮に、自分が選んだはずの現在が「最適解」なのだとしても確かめる術はないし、自分には「自分が選ばなかった」ほうの数多くの破片が遠くで輝いている様を眺めるほかなくて、その眩しさがいつまでも苦しい。

全てを「終わり」にすれば済む話なのだと頭では分かっていても、「終わりにする」ことを選ばずに、今これを書き綴っている。この先、いつか胸を張って「これでよかった」と思える日が来ればいいな、なんてことを思いながら、「書かない」ほうを選ばずに、部屋でひとり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?