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明るさが拒絶するもの

わがはいは三十路のおっさんである。

職はまだない(ほしい! し募集中である。)。

で、こんなおっさんには友達は少ない。地味な仕事をしているせいで、仕事の絡みでの知り合いはいても基本的にみなオッサンである。仲良しの女性はみな結婚するかどうかしている。(どうか、のところにはいろいろな含みがある)

で、そんなぼくが行きたいところがある。

串勝物語だ。

近くのアウトレットモールにぼんやりと置いてある串勝物語は、以前は別のビュッフェスタイルレストランが入っていた。高級路線のビュッフェは日本ではあまり人気がなく、時間がかかると味が落ちる。あっというまに潰れてしまった。その後に串勝物語が入って、家族連れやデートでそれなりに繁盛してみるのをみていろいろと得心したのを覚えている。

串勝物語は、2014年ごろに設立された「自分で串カツを揚げる」というスタイルを確立したビュッフェスタイルレストランである。串カツは安くて美味しい庶民派のアテだった。

 それを手前で揚げる工夫は「おっさんのもの」だった串カツを、「子供から大人まで楽しめるエンターテイメント」に変えた。明るい店内には串カツだけではなくサラダを含めて豊富なメニューがある。

 らしい。

 らしい、というのは、単純に行ったことがないからである。串勝物語はオッサンお一人様では入れないし、そもそも入りにくい。明るい串カツ食べ放題の世界に一匹のオッサンは想定されていないのだ。もちろん、それを責める気はない。一人きりになってしまったオッサンが悪いのだ。

オッサンは仲の良い妻や安定した収入や子供がいて、はじめて「パパ」なり「世帯主」なりになれるのである。

成れなかったやつは、そういうやつなのだ。

 串勝物語の底知れない明るさは、社会と世間体が放つハイルクスの光に包まれなかった人達をとてつもない明度で遠ざける。

石川淳という作家に『狂風記』という天下一の大傑作があるのだが、このラストの直前地底に閉じ込められた魑魅魍魎が地上へと出て太陽に焼かれて猛死する場面がある。くだらない私語りやシステムメイキングなファンタジーに毒された近代文学と絶縁した、子供には読めない大人の戯作である。あと新字体になってる版はゴミカスである。旧かな旧字のゴツゴツしさを軽妙な文章で綴るのが石川の本領だ。

 そのときの魑魅魍魎とは、力ある大妖怪ではない。たぶんこの光に当って死ぬのは我々のような無力なオッサンである。日輪の太陽とは正義の光輪ではない。串勝物語のLED照明である。

食事はエンターテイメントなのだ、ということを、かつて行ったブラジル料理屋で知った。焼きパイナップルまた食べたい。しかしエンターテイメントは一人で味わうことはできない。『孤独なグルメ』が徹頭徹尾一人の「食事」であるように、串勝物語は松本大洋『ピンポン』でストリップをたたき出して成立したあの遊園地のような、「エンターテイメント」なのだ。

孤独の串勝物語は存在しない。中間はない。隣にあるのは『串カツ田中』だ。しかし『串カツ田中』はエンターテイメントではないのだ。

ぼくもまたいつか、光ある串勝物語にいけるだろうか。無職に2000円近くかかるランチ代は高く、また串カツを揚げる手間を考えれば3000円以上するディナーは夢のまた夢だ。我々は串カツ田中でもしゃもしゃキャベツをかじりながら、ただひたすらあこがれを抱くだけなのだ。子供達とLEDに。あと、光ある食のエンターテイメントに。

つうわけで、誰か連れてってください。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。