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コップと椅子とドーナッツの中心

サイゼリアで酒を飲みながら「コップと人間はどうやって区別できるのか」という話をした。相手は哲学者だった。

 哲学徒との議論は4時間ぐらいに及び、複雑極まる論証を受けて白熱した。僕はたしか「もう見るからにコップと人間は形が違うし味も違うし何もかも違う。違う上に、違わなかったら『コップ』と『人』を峻別するような語彙は生まれてなかったし違うに違うを重ねて違う」みたいな論法を辿った。最終的な結論は「コップと人間は区別できない」という話になった。負けた。

いつからか、こんな話を「くだらない」と吐き捨てるように、そういうふうに飼いなされてしまったなあとしみじみ思った。特に夜中にカップラーメン食べてるときに思う。効率と常識が支配する世界に生きているとイノベーションだとか、革新性だとかも、所詮は「便利」の延長線にしかない。AIが発達したら、最終的に「パンダと酢味噌の違いをなくす」理論を見つけてほしい。そういうタイプの飛躍をかつては哲学が担っていた。哲学を知らない人たちだけが大人になり経営者になり労働者になってしまった。

哲学者とドーナッツ

哲学者というのはこういう人だ。

ドーナッツの輪はあるのか、ないのかを聞いてみよう。みんな三秒考えて、「ある、か、ない」と答えるだろう。そこで話を終えるのが気の早い人。それから「なんでないのか、あるのか」を少し話すのが普通の人。それから二週間経って「ドーナッツの中心があるのかないのか考えてきた」という人が哲学者だと。


僕はそれからずっと「ドーナッツの輪」というか、ドーナッツの中心についてこだわりをもって考えていた。

ドーナッツの芯を売ってるお店

今みたいにリニューアルする前の新宿駅のお菓子屋さんに「ドーナッツの芯」が売られていたのだ。ドーナッツの芯を揚げたお菓子はたしかにどう見てもドーナッツの芯だった。

ドーナッツの芯は、果たしてドーナッツの輪っかなのだろうか、という問いかけもできるかもしれない。ただの丸っこく揚げられたお菓子のかけらなので、それを取り巻くように見えない「輪」があるんだって言ってもだれも信じてくれないけれど。

ドーナッツの芯を売っていたお店はもうなくなってしまった。そのあとにミスタードーナッツにいったとき「ドーナッツの芯ってどうしてるんです?」と聞いたことがあった。「最初から輪っかの形で整形してます」と言われた。残念。


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