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広く浅くか、深く狭くか

なぜか「広く浅く」だと、「広い」が先のほうが語感がよくて、「深く狭く」だと「深い」が先の方が語感がよい。それはよいとして。

大学には様々なレベルがあって、それは「偏差値」というようなことで測られたりする。こないだある先生と話していて、その人が勤める大学は、まあ、平均的なところから、やや下の偏差値に位置づけられるような大学で、そこでやる「日本語学概説」と、もう少し上の大学でやる「日本語学概説」では何をどう変えるべきかみたいなことを(僕がその人と話したあとで)考えた。

まずは、その人の考え。その人の大学の学生は理解度が必ずしも高くはないので、そういう学生に向けて、分かるように話す。となると、この話は捨てて、あの話は措いておいて……と、最終的には、「基本中の基本」に絞って話すことになるという。

シラバスを見せてもらったけれども、シラバスの範囲自体は標準的なもので、15回の授業で、日本語文法の全容がある程度見渡せるような内容になっている。標準的というのはつまり、大体どこの大学でも、レベルに関係なく教えているトピックは同じであるということだ。トピックは同じだけれど、中身をどこまで深くやるか、に差があると理解することが出来る。

この、「シラバスはどこの大学でも大体同じ」で、「全容がある程度見渡せるような内容になっている」ということが、そもそも問題なのではないかと思う。

この方法では、勉強する範囲はどこの大学も同じなので、1つのトピックにかけられる時間は、どこの大学でも同じである。学生の理解力に差があるのに、同じ時間しかかけられないということは、1つのトピックが深められる、その程度に差をつけるしか選択できる教育方法がないということになる。

学習指導要領なるものが存在する高校までの教育では、これは仕方のないことかもしれない。本当はこのこと自体を議論する必要があるけれど。
しかし、大学での教育というのは、基本的には何をどこまでやるかが教員の裁量に委ねられている。つまり、例えば日本語学において、どこまでやれば「全容がある程度見渡せる」のかには、緩やかなイメージはあっても、定的な基準があるわけではない。日本語学のテキストをいくつか並べて目次を見れば、そのことはすぐに分かっていただけると思う。

上記のように、範囲を決めて1つのトピックで扱う内容の量に差をつけるやり方だと、学べる内容はいきおい「広く浅く」なる。
僕は、そうではなくて「深く狭く」やった方がいいと思っている。なぜか。

広く浅くやる場合には、多くの内容を捨象することになる。

「ここはちょっと、うちの学生には難しすぎる」
「この内容はいま学界でも議論が分かれているところだから」
「自分がいま見ている研究で分かったことがあるんだけど、これはうちの学生には理解してもらえないだろう」

などといって。で、一般的にその分野でなんとなくコンセンサスが得られているようなことについて話していく。他の分野は分からないけれど、僕の分野でおおまかなコンセンサスが得られていることというのは非常に少なく、かつ古い。コンセンサスを得るのに時間がかかるからだ。

ところで、我々が「おもしろい」と感じるものはどのようなものであろうか。ざっと思いつくキーワードを挙げてみると、

・斬新
・controversial(賛否が分かれやすい)
・他の人は気付いていない
・未解決

というようなことではないだろうか。
コンセンサスが得られた学説というのは、それだけ安定して、認められるのに時間が経っており(古い)、定説化しており(賛否が分かれにくい)、みんなが知っており、おおよそ解決している、というようなものである。
つまり、「おもしろくない」。

「概説」の授業の目的が、基礎を固め、その学問の魅力に触れることであるとするならば、「広く浅く」という教育法は、基礎を固めることはできても、その学問の魅力を伝えることには失敗することになる。ついでにいえば、基礎を固めることは、家で本を読めばできる。本に書いてあることを授業でわざわざ教員が喋るというのも、なんだか時間が無駄になっている。

そこで、「深く狭く」教える。
理解のいい学生さんの大学でなら、1回で終わる話を2回、3回に分けてやる。その分、どうしても扱えるトピックの数は減る。しかし、扱ったトピックについてのおもしろさや未解決の問題について伝えて、それについて考えてもらうこともできる。

「理論的なことはうちの学生は無理なんです」とか、「そんなこと言ってられるのは堤さんの学生が優秀だからで、うちの学生のレベルを知らないからでしょ」とか言われそう。

どうなんでしょう? 僕自身は、時間をかけて説明すれば、もちろん分からないこともあるだろうけれど、なんとなくぼんやり理解してくれるだろうという、甘い見通しを持っている。というか、頭の中が「???」となるような経験をしないと、人間は前へ進んでいかないような気がしている。

「うちの学生が理解できるレベルで授業する」ということは、「うちの学生が理解できないものは教えない」ということと同義ではないように思うのだ。

ものすごく話が変わるが、日本のお店では、「広く浅く」方式が好まれる。和洋中全部扱う店もあれば、そこまでではなくても、和食の店に入れば、肉じゃが、唐揚げ、天ぷらくらいあるよね? みたいな期待は誰しもが持っている。「深く狭く」追究するのは高級店の専売特許みたいになっていて、天ぷら、寿司、串カツ、どれもすんごい値段がしたりする。もちろん、串カツやラーメンやと、専門店でも廉価に展開するものもあるが、概して、日本ではそうなっている。

韓国では、専門店が多い。ダッカルビの店はダッカルビばっかり作ってるし、参鶏湯屋さんでダッカルビが用意されていることはまずない。同じ鶏だからいけそうなもんだが。韓国の食べ物屋さんは「深く狭い」のだ。

タイはなんとなく日本風のシステムをとっているような気がする。台湾は韓国風かしら。他の国はどうなのだろう。

いずれにせよ、少なくとも大学の教育に関しては、「深く狭く」がいいのではないかと思う。






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