5.猫に見込まれた鼠
体育の授業は苦手だ。
根っからのインドア派で、スポーツ経験も全然ないし、興味もないから。
ボールは敵だし、バットは凶器だし。
憂鬱だ。
憂鬱なのは今までも一緒だったけど、
今日は、特に。
「おはよ。はるまくん」
「……おは……よう」
絡まれるようになってから毎朝、柳くんは僕に挨拶をしてくる。
彼の低い声が自分に向けられる度に、ドギマギさせられていた。
しかし毎日毎日コツコツ挨拶されると、少しずつ慣れ……みたいなものが、自分の中に沸いていて、ここ最近までは吃ることなく返せていたんだけど。
……最近は、またドギマギしている。
キス。
風邪を引いた日、家に上がり込まれて、また酷いことをされて、
……キスされた。
熱と吐き気で朦朧とした視界で、口の中をめちゃくちゃにされて、そのあとの柳くんの表情が、
……ずっと頭から離れない。
なんで、あんな酷いことしておいて、あんな……優しい表情ができたんだろう。
「……」
最近は挨拶されるたびにそのことに思考が飛んで、柳くんの顔をまともに見られなくなってしまった。
「……。」
柳くんはずっとこっちを見ている。
キスされた次の日から、柳くんはあんまりしつこくなくなった。
いつものように意地悪されて、僕が嫌がったら、嬉しそうに笑って、それからあっさりと手を引く。
そんな調子だから、意図がわからなくてドギマギしていた。
「……ねえ、はるまくん、トイレ行こう?」
「……え、トイレ……?」
「うん。連れションしよ。」
猫みたいに目を細めて笑いながら柳くんが言う。
トイレ?
そんな個室のある場所なんか、一緒に行きたくない。
「……やだ」
「ふふっ、ふふふ……やなの?」
「な、なんで笑うの」
「かわいいから。」
「……」
意味がわからない。
かわいいって、柳くんはよく僕に言うけど、嬉しくない。
「はい。行こ?」
「っえっ、ちょっ、柳くんっ、手引っ張らないで……!」
ぐいと腕を掴まれる。
ドギマギしたまま、柳くんに無理矢理連行されてしまった。
「あれ、おしっこしないの~?」
「お、あ、朝、したから……」
小便器の前に立つ柳くんが僕に顔を向けてキョトンとする。
僕がしどろもどろに返事をすると、ふ〜ん、みたいな表情で目線を戻す。
僕はどこを見たらいいかわからなくて、そばにある洗面台の鏡で髪をいじってごまかす。
「ふう~、……うわ!!!」
「!?」
突然柳くんが大声を出したので見ると、奥の個室の方向を向いて固まっていた。
ばっ、と反対側にいる僕を振り返って、驚いた顔。あんまり見たことない表情だ。
「ヤバい!はるまくん!なんかある」
「っえ、!?な、なに……なんかって、なに!?」
「アレ!みて!」
個室を指差してアワアワしている様子を見ると、なにか只事じゃないことが起こっているのか!?と慌ててしまって、言われるがままに”アレ”を見ようと恐々と近づく。
腰を落としてゆっくり進む僕に、びたっと柳くんがくっつく。
「っう!?」
「ほら!はるまくん!早く!」
「えっ、えっ、ま、まって柳くん!」
そのままぐいぐいと押されて、どんどん未知のなにかに無理矢理近付けられて、焦る。
やだ!なに!?虫!?お化け!?
ビビりきって喚きながら、ぎゅっと目を閉じる。
__カチャン。
……え?
目を開くと、何の変哲もない個室トイレの中。
虫もお化けも見当たらない。
あ……。やられた。
ぎぎぎ、と音を立てるようにゆっくりと、後ろで僕を捕まえている柳くんを見上げると、ニッとした笑顔。
「うっそ~。」
「……!!!」
最悪だ。最悪だ。
最悪だ!
個室で二人きり、なんてトラウマしかない。
パニックになりかけながら、どうにか逃げ出すために頭をフル回転させる。
でも、後ろからガバッと長い腕でシートベルトみたいに固定されて、為す術を奪われてしまった。
「騙されちゃったねえ。」
「は、離して、やだ」
「はるまくんいいにお~い」
「っひい、うぅっ」
ぎゅうと抱き着かれて、肩口を吸い込むように嗅がれる。
ずっと頭の中で今すぐ逃げろと警報が鳴り響いてるけど、右手で左肩、左手で右肩をがっちり掴まれてしまって、さらに上から体重もかけられて、全く身動きが取れない。
……終わった。
「ねえ、チュウしよ。」
「っは!?ぅえ!?」
耳元で、衝撃的なことを呟かれる。
「だめ?」
「なっ……や、えっ……」
「……しよ?」
「っ……」
耳に感触。唇をくっつけて、直接呟かれる。
ひどく熱を持った言い方に、動揺して鼓動が早鐘を打つ。
何も言えずに固まっていると、湿った感触。
「っ!や、っう、やめっ、!」
柳くんの熱い舌が、耳殻を這っている。
突然の未知の感覚に、身体がガクガク震えた。
「ん~~~」
「ひっ、いぁ、やっ、なぎ、くっ」
水音と共に低い声が脳に直接届く。
じゅるじゅる、と耳の孔を吸われて、腰が揺れてしまう。
くっついてるから、ぜんぶ柳くんに伝わってしまう。
「んふふ……きもちいの?」
「ちがっ……!」
「ほら、声抑えないと。誰か来ちゃうよ?」
「……!」
現実にギュンと戻されて青ざめる。
絶対、バレたくない。こんなの。
慌てて柳くんの腕を剥がそうと格闘していた手を離し、自分の口に押し付ける。
「あ……ほら、きた。」
「……っ」
遠くからパタパタとスリッパの音、笑い声。はっきり聞き取れる音量になって、完全にトイレの中に入ってきたことがわかる。
無意識に口を抑える手に力がこもる。フウ、フウと必死に鼻呼吸をする。
不意に、肩を掴んでいた柳くんの左手から力が抜けた、と思ったら、スッと僕の顔の前に移動する。
獲物を捕らえる蛇みたいに見えて、ドクンと心臓が緊張した瞬間、その蛇が鼻に喰らいついた。
「っ!!っ……!!」
口を抑えていたいのに、鼻を塞がれてしまったわけで。呼吸が完全に封じられる。
その状態で、柳くんの舌は耳の孔の奥へ、奥へと入り込んでくる。
「……っっっ!!!!」
「あは……、このままだとしんじゃうよ?」
心底楽しそうに囁く恐ろしい脅しが、脳を揺らす。
舌は孔の中をずりずりと擦り、唾液をたっぷり塗り込まれる。
首から上の血液が逃げ場がないみたいにグルグルと熱くなっていく。
やばい……!
「っ……ハァッ、フッ……!」
「……」
口を抑えていた手をやむなく外して、必死に呼吸をする。
耳元で柳くんがクスクス笑う。
鼻をつまんだ手がグイッ、と引っ張られて、天井を向かされる。痛い。
「ッ!……ぁ……」
剥き出しにされた首筋に柳くんの唇が移動する。
かすかにちゅっ、ちゅと音を立てるから僕は、バレないようにじっとしてしまう。なされるがまま。
べろんと首筋をなぞられて、そこに強く吸い付かれる。
チクッとした感覚があって、それからまた柳くんが嬉しそうにクスクス笑う。
「……肌白いから、目立つね?」
「……ぇ……?」
おそらく、なにか良くないことをされた。
ただ、今はとにかくここから脱出したくて、彼から離れたくて、この個室の外にいる人にバレたくなくて。
それで頭がいっぱいだった。
「ど~したのはるまくん。着替えないの?」
「ほ、ほっといてよ……」
ロッカー室。
次の授業は体育で、体操ジャージに着替える時間。
大半の生徒はすでに着替え終わって移動していて、今いるのは数名のクラスメイトと、僕と、柳くんだけ。
いつもなら早めに着替えて体育館に行く僕だけど、まだ居座っているのには理由がある。
「サボるの?」
「さ、さぼらないよ……」
「じゃ着替えなよ。一緒に行こ?」
「……」
部屋の真ん中に置いてある長椅子に座ってニヤニヤと笑う柳くんを、ジトッと睨みつける。
理由は彼だ。わかってるくせに。
でもロッカー室に残る数人に聞かれたくないから、そう糾弾もできない。
「大我?俺ら先いくぞ~」
「あ~うん。」
僕から目を離さず、ロッカー室から出ていく友達に返事する柳くん。
見つめられて、俯いて縮こまっている僕。
……こ、この状況完全に変でしょ。なんで連れ出してくれないの……!?
と、縋るように彼らを見ても、時すでに遅し。バタンと扉が閉まり、本日二度目の二人きりになってしまった。
「や、柳くん」
「なあに?」
「さ、先、行って……」
「やだ。」
「うう……」
「ね。見せて。」
「ぅわっ!」
ぐい、とカーディガンを掴まれて引き寄せられる。
ボタンを丁寧に外されて、シャツのボタンに手を掛けられそうになって、カラオケでの記憶がぶわっとよみがえる。
「ま、まって!じ……自分で、やるから……」
「そう?じゃあ、はい。」
……観念するしかない。
一つずつ、ボタンを外す。手に温度を感じるくらいの視線が注がれていて、もたつく。
肌着だけになって、その視線が僕の首筋に移動する。
「わ、時間たつと色ちょっと変わるねえ。メッチャ目立ってる。」
「もうっ……なんでこんな……」
「あはは。」
トイレの個室から脱出したあと、洗面台の鏡を見て僕は絶望した。
首筋に、誰が見てもわかるキスマークを付けられてしまったのだ。しかも結構デカい。
制服のシャツの襟でギリギリ見えるか見えないかの位置にあるのが、経験値を感じる……というか……。
もちろん着替える時にはガッツリ見えてしまうわけで。
現在のこんな状況に身を置くことになってしまった。
いや、ここまで全部計算していた可能性は大いにある。柳くんのことだから。
「ほら。着なよ。後ろのそのロッカーでしょ?」
「……っ、て、手出さないでよ。」
「あはっ、わかったわかった。早く。遅れるよ?」
「……っ」
ジャージは僕の背後にある。
念押ししたとて、多分無意味。
今の柳くんに背中見せたくない。怖い。けど、授業に遅れるのも嫌だ……。
……だから、スピードと効率が命だ!
頑張れ僕!
呼吸を整える。
瞬間、バッ!と振り返り、バン!とロッカーを開き、ガシッ!とジャージを掴み、ガシッ!と背後から抱き着かれた。
はい終わり。
「〜〜〜〜っっっ!!!もうっ!!!」
「あははは!ざんねん〜」
「やめて……!離して!!」
「や〜だ。」
肌着の身体に密着されて、ぞわぞわする。
ぎゅうと大きな身体に抱きしめられて、今朝の記憶がまたよみがえる。
身じろぎしていると、僕のおなか側にある大きな手が、するすると上へ移動した。
「っや!!む、無理っ!」
「ふふ、なにが?」
すりすり、と中指で乳首をくすぐられる。
そこは、ダメでしょ……!!
くすぐったい以上に、明確に、性的な行為な気がして。
精一杯身を捩って逃げて、ロッカーに背中を張り付けて、ジャージで身体の全面を隠す。
「んふ……はるまくん乳首敏感なの?」
「びっ、びん……、違う!こ、こういうの、変だよ……。」
「なにが?」
「ぼ、僕は男だし、ち……くび……とか、触るのは……」
「ん?でもさ」
柳くんが、僕ごしに僕の背後のロッカーに手をつく。今度は先月の、試着室の記憶がよみがえる。
「チュウした仲じゃん。」
「……っ」
ぐい、と綺麗な顔が近づく。
イジワルな笑い方をした吊り目が僕の目をじっと見つめて、それから唇に目線を落とした。
あ、やばい、また、
「んっ……!」
柳くんの唇が僕の唇に重なる。
ちゅぱ、と音を立てて、角度を変えてまた吸い付かれる。
舌が唇を割って、開けて。と言うように歯列を撫でられる。
必死に歯を食いしばって耐えていると、ジャージを掴んでいた、意識から外れてしまった手を取られて、両手ともロッカーに縫い付けられてしまった。
あっ、と気が逸れて緩んだ歯をこじ開けて侵入を許してしまう。
「ぁ……んむ、ん……っ」
「んふふ……。」
口内を弄びながら楽しそうに柳くんが笑う。
ぎゅっと握られた手をゆっくり上に持ち上げられて、僕の頭の上で止まり、柳くんの大きな左手一つで両手とも縛られる。
空いた右手で頬を優しく撫でられて、そのまま耳を掠め、首筋のキスマークを撫で、鎖骨をなぞられて、胸に移動する。
「ふ、ぁ、やら、らめ……」
「ん~?ふふふ」
どろどろになった声で懇願しても、イジワルにはぐらかされる。
柳くんの指がまた、肌着越しに乳首をすり……と撫でて、身体が跳ねる。
脇腹ごと掴まれて、親指が本格的に動き出す。
「ッあ、あぅっ、ン……ンぅ!」
長い爪を立てて、かりかりかり……と先端を掻かれ、全身にびりびりと甘い電流が流れる。
なにこれ、こんなのだめだ。
逃げたくても手は縛られて、胸はガッシリ掴まれていて、勝手に腰が揺れてしまう。
「ッはあ、きもちい?」
「はっァ……やだ、やだっ、あ、ア」
「やっぱ敏感なんじゃん。これすき?」
「あっ、あ、あ、あ、や、だめ、だめ」
唇を解放された途端、先端への刺激が加速する。
背中を丸めて逃げようとしても、後ろはロッカー。ただ追い詰められて、グリグリと指が迫ってくる。
先端を掻き、潰し、捏ねて、めちゃくちゃにされる度、バチバチと頭がスパークする。
逃げたい、助けてほしい。こんなの知らない。怖い。
「ふふふふ、かわいい……顔見せて?」
「やだ、やだ……」
「あ~~~~かわいい、もっかいチュウしよ?」
「やぅ、んんっ、あむ……ん、ぅ」
訳も分からないまま、また口内を弄ばれる。
僕と柳くんに膜が張られたように、ここだけ温度が違うような、感じがする。
きもち、いい。
怖い。
「ぷぁ、はあ、も、むり、やなぎくん、むり」
「あはっ……無理?限界?」
「げんかい、もう、ゆるして……」
「ああ……かわいい、はるまくん、かわいい」
「やだ……やだっ」
僕はおかしくなっちゃったのかもしれない。
かわいいって柳くんが言う度、1℃ずつ体温が上がる感覚がする。
「じゃあこれで許してあげる。おいで」
「へっ?ぅわっ!」
ひょい、と簡単に持ち上げられて、さっきまで柳くんが座っていた長椅子に座らせられる。
そのまま押し倒されて、また手を握ってくる柳くんの表情は、風邪を引いた日のあの表情に似ていた。また、記憶が、鮮明によみがえる。
「……っ、な、に……、やだ、」
「これで最後。ね?」
宥めるような口調で言う柳くんが、また近づいてくる。
最後。最後なら、我慢するべき?
もうわからない。めちゃくちゃになった思考じゃ何も正しいことが判別できない。なされるがまま、受け入れてしまう。
啄むようなキス、ぺろ、と舐められて、ぬるぬるになった唇が滑るように舌を迎え入れてしまって、またどろどろに溶かされる。
……。
……?
あれ。
腕が動かない。
「んえ?」
「あははっ、かわいい。夢中になってた?」
またイジワルな顔。
バッと腕を見ると、さっき落とした僕のジャージが、僕の腕と長椅子を縛り付けていた。
えっ、抜けない。伸縮性のあるはずの布地が、きつく結ばれてびくともしない。
……終わっ、た。
「はあっ、はあっ、や、やだ、やだ!取って!」
「あは、取るわけないじゃん……?」
「ひい、ひっ、やだっ!おねがい!」
「よいしょ」
恐怖で青ざめても、聞く耳を持ってくれない。
僕の足を押しつぶすように上に跨る柳くんが、肌着をゆっくりと捲ってくる。指が、近づく。
だめ、だめ、だめ!
「あっ!!あ!ぃやあ!!!」
「直のほうがきもちいよね?いっぱいしてあげる。」
「むりむりっ、むり、あ!あ、あ、」
乳首を直接、爪で掻かれて、桁違いの衝撃が全身に走る。
しかも、柳くんは両手が空いている訳で。
左右で違う動きをされて、身体はびちびちと魚のように痙攣する。
こんなのむり、ほんとうにおかしくなる。
「はるまくんの乳首、おいしそ……」
「はっ、?え、だめ、だめ!!!」
赤い舌がでろんと顔を出す。長い舌が見せつけるようにちろ、と動いて、右側に近づく。
それはぜったいにだめだ。でも、うごけない……!
「っっっア!!ゥあ、あ……!!!」
「ンあ~~~~……あは……っ」
柳くんが歯を見せて笑いながら、舌全体で乳首を押し潰す。味蕾のざらざらが、ひとつひとつが、先端を刺激して、むり、しぬ。
背中が仰け反る。おなかがびくびく動いて、それをぎゅっと抱きしめられて、乳首をさらに圧迫していく。
「いやあああっ!!やだっ、やめて!!むり!!!」
「ら~め……んん、」
「ッは、はあ、ひあ……ッ」
「ぷは、きもちよさそ~~♡」
ちゅうと吸われて膝がぶるぶる震えて、口が緩んで涎が垂れる。無様な表情を見られて、快感は強くて、もう、もうわからない、なにも、こわい。
涙がぼろぼろ溢れ出てくる。拭えないから、見えなくなって、柳くんが僕の顔を掴むまで近づいていることも気付けなかった。
「っぐ!?」
「はあ……ほんと、泣き顔かわいい。」
「っふう、ふゥ……ッ、なんで、なんで……っ」
「うん……?」
「うう、やだ、こわい……」
「あはっ……!怖い?」
「こ、こわいよ……っ、やなぎくっ、さ、いきんは、や、やさしか、った、のにっ」
「…………え?」
「っす、すぐ、やめてくれたのにっ、うぅ、今日、はっ」
「……やめてくれないから、やだ?」
「や、やだ……っ」
「……」
「っ、い、いたい……っ」
泣きながら、嗚咽で詰まりながら、畳みかけると、顔を掴む手に力が籠っていく。
涙でよく見えないけど、怖い顔をしている気がする。恐怖が膨れ上がる。
じっと、見つめられている。
なにも言わない。
怖い。
怖い。
「……あは。その顔、その顔が好き。」
「……ぅ」
「その顔が見たい。俺。」
「ひ……」
「あはは……!もっと見たいな……。」
「あ……」
鼻がくっ付くくらい顔が近づいて、柳くんの両目しか見えなくなって、涙が引いて、よく見える。
瞳孔が開ききって真っ黒だ。
獲物を狩るときの動物の目だ。
身体が竦む。何もできない。何も声が出ない。
「食べちゃいたい。」
囁きが僕の耳を通して脳にたどり着く前に、柳くんの顔がすっと下がる。
がり、という衝撃があって、それから、痛みが全身を駆け巡る。
「ッッッ~~~~~……!!!!!」
乳首の周りの肉ごと、咬みつかれた。
目の前が真っ白になって、すぐに真っ暗になる。
ぎちぎち、という音がする。
クスクス、と笑っている。
痛い。痛い。痛い。怖い。
怖い。怖い。
「っはあ……あ~あ……俺歯尖ってるなあ。」
「あ、あ……」
視界が徐々に戻ってきて、空気が歯型を撫でる度に新鮮な痛みに襲われる。
喰われたのかもしれない。身体の一部を、ごっそり……?
震える身体で恐る恐るそこを見ると、食いちぎられてはいなかったものの、血の球がぷっくりと乳首を取り囲んでいた。じわ、と涎に滲んだ瞬間、恐怖でめまいがした。
怖い。もういやだ。この人はおかしい。だれかたすけて。いまなんじだろう?いたい。だれも来ない。だれもたすけてくれない。
震えが止まらない。
見下ろす彼はきっと笑っているんだろう。
もう終わって。お願い。
「……はるまくん。」
「……」
「ああ……ごめんね?怖いね……」
「……」
「すごい震えてる……今、外すね。」
「……」
「よいしょ。……かった。……はい、取れたよ。」
腕を縛っていたジャージを解き、柳くんが微笑む。
自由になったはずなのに、身体は竦んで動かない。
しばらく黙ってそれを見ていた柳くんが、すっとこちらに手を伸ばす。
「ッ!!」
「ふふっ……もうしないよ。これで最後ってさっき言ったじゃん。」
「……ぅ……」
びくっと強張る僕をへらへらと笑う彼に、恐怖と、怒りと、疑心が止まらない。
なにがそんなに面白いんだろう。
それでもやっぱり為す術なく身体を起こされて、僕は何も言えなくて。みじめでたまらない。
「大丈夫?」
「……」
「ふふ、睨まないでよ。その顔も好きだけど。」
「……も、……」
「も?」
「……もう、いい……?」
「なにが?」
「……っ、もういい?ぼ、ぼ、僕、もう、で、出たい」
「あは……もういいよ。ごめんね?」
「……」
震える声で、こんなことしか言えない。弱い。みじめで無様で愚かだ。辛い。
じわじわとまた視界が滲んできて、見られないように顔を伏せてジャージを着ようとする。捲られた肌着をガバッと戻して、その瞬間、痛みでバチンと後頭部が揺れる。
「ッい!!!」
「ああ、たいへん。あ~~なんかあ、ここどっかに絆創膏あったはずだよ」
「……っいい、いいから」
「……でも痛いでしょ?」
「も、もう、いいから、も、帰る……」
「帰るの?じゃあ送るよ。」
「い、いらない!!」
つい大声を出してしまって、はっと我に返る。
ちら……と顔を見ると、びっくりしたような表情の柳くん。
でも、だって。
こんなことをしておいて、優しい振りなんてやめてほしい。
絆創膏?送る?なにを言ってるんだ。
そんなのお断りだ。
一刻も早く彼から離れたい。その一心だ。
「……わかった。センセには言っとくよ。」
「……」
また微笑んで言う柳くんに返事はせず、床に落ちたカーディガンとシャツを拾い上げて、逃げるようにロッカー室を出て行った。
柳くんは、僕が怖がっているのを見るのが好きなのだろう。
じゃあ怖がらなければいい。堂々としていればいい。
でも、彼のあの表情、行動、目。
……本能が怯えて、どうしようもなくなる。
言いたいことも言えない。為す術を奪われる。
怖くて、動けなくなる。
……打つ手がない。
これじゃまるで蛇に見込まれた蛙みたいだ。
もうすこしで冬休みが来る。
それまでの辛抱。
……でも、明日は休みたい。
ベッドの中で丸まって震えながら、ぎゅっと目を閉じた。
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