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フランス第二帝政I(セカコの世界史)

ルイ=ナポレオンと第二共和政

セカコ:こんにちわ。今回は、フランス第二帝政について学んでいきます。第二帝政は、ナポレオン3世の時代ですね。

先生:よろしくお願いします。はじめに、ナポレオン3世こと、ルイ=ナポレオンの生い立ちから見ていきましょう。

セカコ:テキストによると、1)ルイ=ナポレオンは、ナポレオン1世の弟ルイの子です。若い頃、イタリア民族運動に共鳴しカルボナリ党に参加、七月王政時代には獄中生活を経験したとあります。ユニークな青春時代を過ごしていますね。

先生;社会主義にも傾倒していました。オーウェンやルイ=ブランの社会主義の書物を読み、自ら著書『貧困の絶滅』を発表しています。

セカコ:ウィーン体制の時代を、民族運動や社会主義に共鳴し、実践もして過ごしたのですね。

先生:一貫して反ウィーン体制の立場、民族主義や自由主義、社会主義の立場に立っていますね。その彼が、政治家としてウィーン体制の破壊者になったのは、必然なのかもしれません。

セカコ:そして、1848年二月革命で成立した2)第二共和政で大統領選挙に出馬しています。知名度を活かして当選し、共和国大統領に就任しました。

ルイ=ナポレオンの政治と1851年のクーデタ

セカコ:第二共和政は四年足らずで崩壊しました。これは、ルイ=ナポレオン自身が皇帝となり、第二帝政を始めたからです。大統領としてルイ=ナポレオンが行った政策について、注目すべき点はありますか。

セカイシシ:軍備の拡張や鉄道事業をはじめとする様々な事業の推進などを構想したが、第二共和政のもとでは大統領の権限に制約があり、思うように行かなかったようじゃ。そのことが、彼と彼を支持する保守層や資本家層に、第二帝政への道を選ばせることになった。

先生:受験にも出題されるので、注目してきたい政策としては、ローマへの派兵が挙げられます。

セカコ:ローマへの派兵ですか。

先生:1848革命(諸国民の春)の余波で、イタリアでローマ共和国が成立しました。これにより、ローマ教皇ピウス9世は亡命を呼び失くされました。ルイ=ナポレオンはフランス軍を派遣してこれを鎮圧し、ローマ教皇ピウス9世を復位させています。

セカコ:若い頃にカルボナリに参加してイタリア民族運動に参加していたのに、矛盾していませんか?

先生:良いところに気づきましたね。イタリア統一運動には、二つの考え方があるのです。一つは、ローマ教皇などの伝統的な勢力を排除して、新たなイタリア国家を打ち立てようとする考え方。もう一つは、ローマ教皇を尊重した上で、イタリアを統一する考え方です。

セカコ:青年イタリアやローマ共和国は前者の間が肩を取っていたのですね。ルイ=ナポレオンは後者だったと。

先生:そうですね。フランス革命政府と叔父のナポレオン1世のローマ教皇に対する政策の違いを覚えていますか。

セカコ:革命政府は教会財産の没収や共和暦の採用で、ローマ教皇と対立を深めましたが、ナポレオンは統領政府時代に宗教協約(コンコルダート)を結んで、ローマ教皇と和解し、暦もゴレゴリオ歴に戻しています。なるほど、ローマ教皇を尊重することは、ボナパルト家の伝統なのでしょうか。

先生:そうですね。ナポレオン1世がなぜ、宗教協約やグレゴリオ暦の復活を行なったか、覚えていますか。

セカコ;保守層の支持を得るためです。あ、思い出しました。フランスは国民の大半がカトリックなので、国民は心情的にローマ教会との対立を望んでいないと、先生がおっしゃっていました。フランス革命政府は啓蒙思想の影響で理性を重視するあまり、伝統的なローマ=カトリック教会を敵視、軽視したが、ナポレオンは国民の心情を重視し、カトリックを重視したとお話しされていました。神社のお話を覚えています。

先生:私たち日本人が、いきなり神社に行くのは禁止だとか、お寺にお参りに行くのは禁止だとか言われて、これからは理性を重視しろと言われても、多くの人は神社やお寺にこれまで通り行きますよね。ナポレオンはそのあたりがわかっているのです。

セカコ:ルイ=ナポレオンがローマに派兵し、ローマ教皇を復位させたのも、同じ理由からなのですね。

先生:そうですね。この行動は保守層、特に農民の支持を獲得するのに役立ったのです。帝政への布石と言ってもいいかもしれません。ルイ=ナポレオンはその後、3)1851年のクーデタで議会を解散し、独裁権力を握離ました。

セカコ:叔父のナポレオンと似た行動を取っているわけですね。

先生:ここまでは、そうですね。

ナポレオン3世と第二帝政

セカコ:テキストにしたがって進めます。ルイ=ナポレオンは1852年に国民投票で皇帝に即位し、4)ナポレオン3世を名乗りました。彼の帝政期間(1852年から1870年まで)は5)第二帝政と呼ばれます。クリミア戦争、アロー戦争、インドシナ出兵、イタリア統一戦争等の積極的な対外政策を行いつつ、国内産業の保護育成にも尽力したとあります。

先生:順に見ていきましょう。まずはじめに、ナポレオン3世の政治手法について確認しておきます。ナポレオン3世の政治手法はボナパルティズムと称され、保守層、ブルジョワジー、労働者など幅広い層に利益を配分し支持を得ていました。

セカコ;ナポレオン1世の政治手法もはボナパルティズムでした。

先生;そうですね。より正確には、ナポレオン3世が、ナポレオン1世と同じ政治手法を取り、それがボナパルティズムと呼ばれるようになったのです。

セカコ:右派、中道、左派、それぞれの期待に応える政策をとって、それぞれの立場から支持を得ていく政治手法でした。先ほどの、ローマへの派兵とローマ教皇庁の保護は、保守層や農民層の期待に応えたものでした。

先生:そうですね。ローマ教皇やカトリックの保護はそうした目的を持っていました。また、農民の土地所有権を保護する政策が保守層に支持された。

セカコ:農民の多くは、国民公会の時代には、ロベスピエールら左派の支持層でした。

先生:それは、多くが土地を持たない小作農だったからです。

セカコ:ジャコバン派政権が行った封建的特権の無償廃止で、多くの農民が耕作地を自分のものとしてからは、小農民・自作農になったのでした。

先生:ナポレオン1世は民法典で、所有権を保証し、農民の土地所有権も保証しました。

セカコ:農民がボナパルト家を支持する理由が分かります。二月革命の後の四月総選挙で、左派が敗れたのも、農民が保守層になったからでした。

先生:そうでしたね。フランスの農家というと、ブドウ農家の多いです。ナポレオン3世は現在まで続くワインの格付けを制度化して、フランス・ワインのブランド化を進めています。

セカコ:先生はワインがお好きなのでしたね。

先生:最近は歳をとって、お酒に弱くなったので、あまり飲まなくなりました。セカコさんも20歳になったら、ぜひフランス産のワインを飲んでみて下さい。

セカコ:中道の資本家層は、ナポレオン3世の支持者です。

先生:そうですね。国内産業の育成や海外への勢力拡大などの経済発展政策が資本家層に支持されていました。

セカコ:左派の労働者層の支持は、どのようにして得ていたのでしょうか。

先生:保険立法や土木工事による雇用創出、労働者の権利保護等の政策が労働者層に支持されました。

セカコ:ナポレオン3世って、政治の天才なんですね。ルイ18世やシャルル10世、ルイ=フィリップらウィーン体制時代の王たちとは、全然違いますね。

先生;ナポレオン3世は、時期が恵まれていたというのはあります。

セカコ:どういうことですか。

セカイシシ:ルイ18世やシャルル10世、ルイ=フィリップらウィーン体制時代の王に仕えた政治家も、同じような政策を行おうとしておった。ただ、ウィーン体制の時代は不景気が続いて、事業の拡大はうまくいかず、失業率も高くて労働者層の不満が大きかったのじゃ。

セカコ:ナポレオン3世の時代は「資本の時代」だと、先生が口癖のようにおっしゃっています。

先生:そうですね。教科書や用語集に載っている言葉ではないのですが、19世紀半ばの世界史を理解するのに良い言葉なので、いつも授業で教えています。「資本の時代」というのは、1848年から1875年頃までを扱った、エリック=ホブズボウムの著書『資本の時代』に由来する言葉です。

セカコ:カリフォルニアとオーストラリアのゴールドラッシュがあって、好景気が到来したのですよね。

先生:そうですね。1830年代にイングランドから始まった鉄道建設と、ゴールドラッシュが重なって、未曾有の好景気が到来したのです。

セカコ:テキストによると、世界的な好景気と共に鉄道建設ブームが起き、ナポレオン3世も鉄道建設を進めました。これによりブルジョワジー層と労働者層の支持を獲得していきます。

先生:鉄道建設は総合開発事業ですからね。鉄道を敷設するだけではなくて、機関車や貨車、客車、その基地をつくります。駅ができれば駅前通りができて、そこに商店が建てられ町が発展します。

セカコ:そう考えると、鉄道建設は、効果的な景気浮揚策なんですね。

先生:私の地元新潟出身で総理大臣を務めた田中角栄が、『日本列島改造計論』というものを発表して、日本全土を新幹線と高速道路で結ぶ計画を立てました。

セカコ:ナポレオン3世と同じですね。各地で鉄道や道路、町が建設され、労働者の雇用が生まれて・・・・。

先生:というはずだったのですが、第四次中東戦争が起こり、石油危機に見舞われて、うまくいかなくなりました。

セカコ:ナポレオン3世の時代が「資本の時代」と呼ばれる好景気だったことは、ナポレオン3世にとってはラッキーだったわけですね。

先生:そうですね。1851年にロンドンで世界初の万国博覧会が開催されました。これに刺激を受けて、ナポレオン3世は、1855年と1867年に6)パリ万国博覧会を開催し、産業を育成し国威を発揚しました。この時期は、日本は幕末動乱期にあたり、幕府や薩摩藩が万国博覧会に出展したりしています。

セカコ:渋沢栄一を描いた大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢栄一らが幕府の使節としてパリを訪れ、万国博覧会を訪れたり、ナポレオン3世に会う場面が描かれていました。

先生:ナポレオン3世も登場したのですか。

セカコ:ほんの一場面ですが。

先生:それは興味深いですね。機会があったらぜひ映像を見てみたいです。

(続く)

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