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第141講 アジア諸国の独立

141-1 中東諸国の独立 

英仏の動揺

 第二次世界大戦は、敗戦国だけでなく、戦勝国となった英仏の勢力圏も揺るがした。

 ブリテンは保守党1:チャーチル内閣にかわった労働党2:アトリー内閣のもとで漸進的に植民地の独立をすすめたが、パレスチナや南アジアにおける妥協的で安易な決定は、現在まで続く対立を生み出した。

 フランスは3:ド=ゴールを首班とする臨時政府(1944-46)から4:第四共和政(1946-58)へと移行したが、第四共和国憲法は、旧植民地や旧保護国を本国と対等な権利と義務を持つ5:フランス連合の構成国と定めた。このため、独立を求めるアジア・アフリカの民族運動を反乱と断じ、アジアで6:インドシナ戦争(1946-54)、アフリカで7:アルジェリア独立戦争(1954-62)に直面した末、カンボジア(1953)・ラオス・ヴェトナム民主共和国を認めたが、1958年に第四共和政は倒れた。

アラブ諸国の独立

 大戦中から大戦後にかけて中東の英仏委任統治領が相次いで独立した。

 英委任統治領のうち、フサインの子ファイサルを国王とする8:イラク王国は1932年に委任統治を終了し独立した。

 同じくフサインの子アブドラを国王とするトランスヨルダンも英アトリー政権が委任統治権を放棄し1946年独立、49年9:ヨルダン王国と改名した。

 英アトリー政権はパレスチナ委任統治権も放棄した(後述)。

 仏委任統治領のうち、1943年10:レバノン共和国が、1946年11:シリア共和国が独立した。

 先に独立を果たしていたエジプトは1945年カイロでパン=アラブ会議を開催し、エジプト(1922年独立)・サウジアラビア(1932年成立)・イエメン(1918独立)の三ヶ国に、新たに独立したイラク・ヨルダン・シリア・レバノンの四カ国を加えた7カ国で、アラブ人諸国の連携を目的とした12:アラブ連盟を結成した。

パレスチナの独立問題


 第一次世界大戦後ブリテンの委任統治下にあったパレスチナでは、イスラーム教徒が多数のアラブ人(=パレスチナ人)とユダヤ教徒が多数のユダヤ人が共存していたが、ブリテンのアトリー政権が委任統治権を放棄し事後処理を国連に付託したのを受け、国連総会は1947年11月、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に二分する13:パレスチナ分割決議 Partition Plan for Palestineを採択した。

 少数のユダヤ人に有利で、多数を占めるアラブ人に不利な分割決議が、周辺のアラブ諸国がそろって反対したにもかかわらず、総会の多数決制により可決された。

*国際連盟の全会一致制が批判され、国際連合の多数決制が良しとされる場合が多いが、パレスチナ分割決議の例を見ると、多数決制が最善ということではないように思われる。

 1948年5月ユダヤ人側は14:ベングリオンを首相とする新国家15:イスラエルの建国を宣言した。

 アラブ人側は反発し、中東戦争が勃発した(16:パレスチナ戦争、第一次中東戦争1948-49)。

 1945年カイロのパン=アラブ会議で結成された17:アラブ連盟諸国(エジプト、シリア、レバノン、サウジアラビア、ヨルダン、イラク、イエメン)はただちにイスラエルに侵攻したが、アメリカの支援をうけたイスラエルが勝利した。

 戦争の結果イスラエルは決議案よりも広い領土を獲得した。エジプトはガザ地区、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を確保したが、パレスチナ国家建設が事実上不可能となった。これにより、大量の18:パレスチナ難民が生じ、現在まで続くパレスチナ問題が生じた。

141-2 南アジアの独立


インドとパキスタンの独立

 戦後、インドの独立は既定路線となったが、統一インドを求めるネルーら国民会議のグループと、パキスタンの分離独立を掲げる1:全インド=ムスリム連盟の対立が激しくなった。1947年、アトリー内閣のもとで(2:インド独立法)が制定され、インドとパキスタンの分離・独立が定められた。

 英連邦の一国として独立した(3:インド連邦)は、4:ネルーが首相(任1947-64)となり、ヒンドゥー教徒が多数を占める連邦制国家となった。1950年には新憲法を制定して英王室への忠誠を否定し、(5:インド共和国)となった。不可触民出身の6:アンベードカルが憲法起草委員長をつとめ、身分差別が憲法で禁止された。*しかし差別は残り、彼は晩年、根強い差別に抗議し仏教に改宗した。

 イスラム教徒が多数をしめるパンジャーブ地方・シンド地方と東ベンガル州は、7:パキスタン(首都カラチ、のちイスラマバード)として分離・独立し、8:ジンナーが総督(任1947-48)となった。

 宗教の違いを乗り越え「ひとつのインド」をめざした9:ガンディーは、ヒンドゥー教徒に暗殺された。

 両国は、藩王がヒンドゥー教徒だが住民の多数をイスラーム教徒が占める10:カシミール州(カシミール藩王国)の帰属めぐり対立、11:第一次インド=パキスタン紛争(1947)がおきたが、国連の仲裁で停戦した。

 その後、第二次インド=パキスタン戦争(1965)を経て、第三次インド=パキスタン戦争(1971)の結果、東ベンガルが12:バングラデシュとしてパキスタンから独立した。

ミャンマー・スリランカの独立


 英領インド帝国からは他にミャンマーとスリランカが独立した。

 英領ビルマ(現13:ミャンマー)は1948年にビルマ連邦共和国として独立した。共産党や少数民族の内乱がつづいて政情は不安定であった。62年のクーデタで14:ネ=ウィンの軍事政権が成立し、産業国有化や貿易統制による経済の自立をめざしたが、ビルマの国際的な孤立と経済の停滞をもたらした。アウンサンの娘15:アウンサンスーチーが民主化を求める運動の先頭に立った。

 セイロン(スリランカ)は同年自治領となり、72年に独立した。英国は植民地時代に少数民族の16:タミル人(タミル語はドラヴィダ語族、宗教はヒンドゥー教が多数)を優遇したため、独立後は多数をしめる17:シンハラ人(シンハラ語はインド=ヨーロッパ語族インド=イラン語派、宗教は上座部仏教が多数)との民族対立が激化し、20世紀後半スリランカ内戦がおこった。




141-3 東南アジアの独立


南アジアの独立



 第二次世界大戦中、日本の占領下にあった東南アジア諸地域は、日本の敗戦後にただちに独立を求めたが、宗主国はこれを認めず、各地で独立運動がおこった。

 フィリピンでは、1946年にアメリカ合衆国から独立して1:フィリピン共和国が成立したが、政府は合衆国への接近を深め、51年2:米比相互防衛条約にを結んだ。いっぽう、共産主義勢力は土地改革を要求して抵抗をつづけた。

 英領マレーでは、日本軍占領下での華人社会への弾圧に対する抵抗運動とともに共産主義勢力が拡大した。1948年にブリテンがマレー人に有利な3:英領マラヤ連邦を成立させた。

 華人の影響力の強いマラヤ共産党はこれに反対して武力闘争を開始した。ブリテンは徹底した弾圧を加え、57年に正式に4:マラヤ連邦として独立させた。

 63年、マラヤ連邦、シンガポールにボルネオ北部のサバ・サラワクを加えて5:マレーシア連邦が成立したが、65年、マレー人優遇(のちのブミプトラ政策)をめぐる華人政策のちがいを理由に6:シンガポールが分離、独立した。マレーシアの7:アブドゥル=ラーマン首相とシンガポールの8:リー=クァンユー首相により平和的に分離、独立がなされた。

 インドネシアでは,日本の敗戦直後にインドネシア国民党の9:スカルノらが独立を宣言し、それを認めない宗主国ネーデルラントとの間に4年にわたる独立戦争をつづけ、1949年ハーグ協定で10:インドネシア共和国の独立を認めさせた。スカルノはインドネシア国民党(NAS)を母体に、イスラーム勢力(A)、インドネシア共産党(1920年結成、COM)の支持も得て強力な政権を維持し、1955年11:バンドン12:アジア=アフリカ会議を主催した。

*スカルノが、インドネシア国民党(NAS)を母体に、イスラーム勢力(A)、インドネシア共産党(1920年結成、COM)の支持も得て強力な政権を維持した体制を、NASACOM体制(ナサコム体制)という。

 タイは、大戦中日本側に立って米・英に宣戦していたが、戦後になってこの宣戦布告を手続き上無効であったと宣言して敗戦国となることを回避し、独立を維持して1946年に国際連合にも加盟した。

フランス領インドシナの独立問題


 フランス領インドシナでは、戦後も混乱が続いた。

 1941年に結成され抗日運動を展開した民族統一戦線13:ヴェトナム独立同盟会(ベトミン)の指導者14:ホー=チ=ミンが、日本敗戦後1945年9月15:ヴェトナム民主共和国の独立を宣言したが、フランス側が認めず、8年間におよぶ16:インドシナ戦争(1946~54)がはじまった。

 フランス本国は南部のサイゴンを拠点に、阮朝最後の王(45年に退位)17:バオ=ダイを元首としてフランス連合の一員である 18:ヴェトナム国(1949-55)を立てて対抗した。

 しかしフランス側はしだいに劣勢となり、54年には19:ディエンビエンフー要塞の戦いでフランス軍が敗北したのを機に、スイスでジュネーブ会議が開かれ、20:ジュネーブ休戦協定が成立した。

 フランスの敗北を機に、フランス第四共和政に対するアルジェリア独立戦争(1954~62)がはじまった。

 ジュネーブ会議と休戦協定の結果、21:北緯17度線を境界に、北側をホー=チ=ミンを国家主席とする22:ヴェトナム民主共和国が、南側をバオ=ダイを追放した23:ゴ=ディン=ジエムを大統領とする24:ヴェトナム共和国が支配するようになり、前者はが中・ソ、後者は米の支援を受けて対立を深めた。 ジュネーブ会議ではまた、すでに独立を宣言していたラオスとカンボジアの独立が正式に承認された。

 ラオスでは左派25:パテト=ラオと右派の政治対立があって内戦となった。

 カンボジアでは国王26:シハヌークが中立政策をすすめた。

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