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本は人を創る

帰省中です。

「きせいちゅうです」と、キーボードで打ったら、「寄生虫です」、「規制中です」という変換候補が出てきてゾッとしました。

まあ、寄生虫かもしれませんし、あるいは規制中かもしれません(笑)。

毎日プライベートな時間を過ごしているので、新潟の自宅にある蔵書を読み返したりしています。

読み返していくうちに、あることをあらためて再確認させられました。

月並みな言葉ですが、「本は人を創る」ということです。

新潟の自宅にあるのは、学生時代や若い頃に購入した本です。

当然ですが、教育や歴史に関する本が多いのですが、読み返していると、ああ、今の自分のこういう考え方は、この本の影響を受けたんだな、と合点がいく部分が多くあるのです。

10代や20代の頃は、あるいはもっと前の小学生の頃から、それが自分の人格形成に影響するなどと考えもせずに、読みたい本を読んでいました。わりと読書好きでしたので、いろいろなものを読みましたが、自宅の蔵書を見返すと、一冊一冊、この本に書いてあったことが、知らず知らずに、今の自分の考え方や歴史の授業、生徒との接し方に影響を与えているなと思えてくるのです。

学校では、若いうちに読んだ本が将来の自分の財産になると、何度も話しているのですが、今回、それを自ら実感させられた形です。

10代や20代の皆さんには、今読んでいる本が、30代、40代、もっと先のあなた自身を形作ることになるということを、もっと意識して本を読んでもらいたいと思います。

蔵書の中から、いくつかを紹介します。

『世界史の誕生』 岡田英弘

大学のゼミのテキストでした。ゼミ生で輪読した思い出の本です。

キッシンジャーの『DIPLOMACY』と並んで、 若い頃の自分が最も影響を受けた本の一つだと思います。

ヘロドトスにはじまる西洋史の伝統と、司馬遷が大成して以来の東洋史の伝統が、それぞれ西洋、東洋という地域史の枠組みで描かれている点を取り上げ、その限界が指摘されています。

日本の世界史の教科書は、最近は随分改善されたとはいえ、中国史と西洋史を軸にしたその他の寄せ集めという感がありますから、これはその限界を指摘しているとも言えます。

13世紀に成立したモンゴル帝国は、東西にまたがる帝国を形成し、はじめて世界史の叙述が可能になったという指摘は、言われてみればその通りなのですが、古い世界史教科書で学んでいた若い頃の自分にはとても新鮮でした。

僕自身が作成する世界史教材や、授業では、いつも、モンゴル帝国から世界史は新しい段階にすすんだと指摘しています。これは、大学時代にこの本を読んだ影響であり、今も時々読み返している本です。

『西欧文明の原像』 木村尚三郎

古くから世界史の教科書では、古代ギリシア・ローマ文明の後継者として中世ヨーロッパ、近世ヨーロッパが位置付けられているが、中世ヨーロッパが何者であるかを、多面的に教えてくれるのが本書である。

ギリシア・ローマ文化と、西欧世界とのあいだには、本来きわめて深い断絶があった。(77頁)

若い頃にこの一文を読んだ衝撃は今も忘れない。

古代地中海世界と中世以降の西欧世界は、基本的に、別物であるという。

その通りではある。12世紀ルネサンスの時期にイスラーム経由で輸入するまで、西欧はアリストテレスなどの古代ギリシア文化を知らなかった。

西洋史は、8世期末のカールの戴冠という出来事を大きく取り上げ、これを機に、ギリシア・ローマ文化とキリスト教文化・ゲルマン文化の融合により西欧世界が成立したのだと教える。大学入試世界史でも最重要の内容だ。

しかし、このカールの戴冠という偶然の一コマがなければ、フランク王国やそこから分かれた諸国が、ローマ帝国の後継者だなどと、主張することはできないのかもしれない。ただローマ帝国の属州であったという事実しかないのだから。

私たち日本人からしてみると、西欧人にとってのギリシア・ローマ文明は、日本人にとっての中国文明とどこか似ていなくもない。

日本人は今でも、義務教育や高等学校で漢文を学ぶ。司馬遷の『史記』や陶淵明、杜甫、李白、白居易らの詩文を学び、基礎教養の一部としている。何より漢字を使っている。まことに強い影響を受けているわけだが、それでも、「日本は中国文明の後継者」とまでは考えていないだろう。

西欧にとってのギリシア・ローマは、これと似ていなくもない。

実は僕自身は大学でイタリア史を専攻した。高校時代に図書館で当時収蔵されていた塩野七生さんの本を全部読んでしまうほどの、イタリア史好きだったからだが、イタリア史という視点からみると、実は少し違った世界が見えてくる。

イタリア半島においては、ギリシア文明も、ローマ人の共和政と帝国も、ゲルマン人やヴァイキングの進入も、カトリック教会の盛衰も、ルネサンスも、全てその場で起こった真実である。

イギリス史やフランス史、ドイツ史を書く際には、ギリシア文化は外来文化、ローマは外敵という位置づけになるだろうが、イタリア史にとってはそうではない。

ギリシア文明も、ローマ人の共和政と帝国も、ゲルマン人やヴァイキングの進入も、カトリック教会の盛衰も、ルネサンスも、全てその場で起こった真実である。

イタリア史の面白さは、「ヨーロッパ史」「地中海史」の枠組みでは見えてこない、ある種の一貫性によるのかもしれない。

『動物裁判』 池上俊一

大学の西洋史のテキストでした。

中世ヨーロッパでは、動物を裁判にかけて裁いていました。

その事例がたくさん紹介されています。滑稽な内容ですが、社会史として興味深い内容です。

例えば、赤子を殺してしまった(と言っても事故ですが)豚が、裁判にかけられ、罪を宣告されます。コメディではなく、歴史史料に基づいた実証研究です。

中世だからといって、軽視すべきではないと考えます。

現代でも、似たような人間心理で行われている裁判があるように思えるからです。これは法学の研究対象としても興味深い内容です。

その豚を殺して食べてしまえば良い話ではないかと思うのですが、人間の精神としてはそれではダメなようなのです。

社会がそれを納得するためには、形式上のものであれ、「罪を犯した豚を裁いた」という手続きが必要だったようなのです。中世ヨーロッパは、現代からは想像もつかないほどの「村社会」ですから、豚が赤子を殺してしまったという異常事態に際して、社会の狼狽を落ち着かせるために、この手続きが必要だったというわけです。

また本書の後半では、西欧人の自然との向き合い方の変化を指摘し、中世以降の歴史と動物裁判の関係性が追及されています。

著者は、動物裁判が始まった時期が12世紀前後であることに着目します。

12世紀は中世ヨーロッパが牧畜主体の社会から農耕主体の社会に変容し、12世紀ルネサンスとして知られる外来文化の流入を経て、自律的な発展を始めた時期です。

動物裁判は、それまでは畏れの対象だった自然に対し、人間が影響力を行使できるという自信の現れが形を変えて表面化したものだと著者は考えています。

動物を裁くという発想をもたらした中世の精神は、森を切り開いたり、自然を自分たちの都合のいいように作り替えることができるという発想につながっていったというのです。

学生時代のゼミのテキストでしたが、大人になり、世界史教員として読み返すと、新たな発見がある本です。

まだまだ本はあるのですが、別の機会にしたいと思います。

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