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【春休み世界史講座#001】独立前の13植民地

セカコ:みなさんこんにちわ。今回は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィア、チェスナットストリートにあるインディペンデンスホール前にやってきました。

先生:このインディペンデンスホールは、アメリカ独立宣言が行われた建物です。アメリカ合衆国建国期に重要な役割を果たし、ユネスコ世界遺産にも登録されていますね。

セカイシシ:インディペンデンスホールは、1752年に完成した当時は、ペンシルヴェニア州議会の議事堂であった。1775年に第二回大陸会議の議事堂として使用され、世界史の表舞台に登場したのじゃ。

先生:1776年7月4日、グレートブリテンの植民地だった13州の代表者が、この建物の広間に集り、ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言に署名しました。この時以来、独立記念館を意味する、インデペンデンスホールと呼ばれるようになったんですね。

セカコ:ガイドブックには、1787年、フィラデルフィア憲法制定会議によって独立記念館にてアメリカ合衆国憲法が制定されたとあります。ここはとても重要な役割を果たした場所だったんですね。このホールを行き交うワシントンやジェファソン、ハミルトンらの話し声や足音が聞こえてきそうです。

先生:1800年にワシントンD.C.に遷都するまで、フィラデルフィアはアメリカの首都でした。ああ、見えてきましたね、あの建物、コングレスホールには、当時連邦議会議事堂として使用されていたんです。

セカコ:あんな小さな建物が連邦議会だったんですか。

先生:そうなんです。私の地元の新潟市で観光名所になっている、憲政記念館という、明治時代の新潟県議会議事堂があるんですが、それより小さいか、変わらないくらいの建物ですから驚きです。コングレスホールは二階建てですが、この構造が、ある言葉の由来になったそうです。

セカコ:たぶん、「上院」と「下院」です。英語の授業でALTの先生が話していたのを聞いたことがあります。

先生:そうですね。各州の代表で構成された「元老院」(Senate)が二階、人口に応じた選挙区で選ばれた議員で構成された「代議院」(House of Representatives)が一階を議場として使用したことが「上院」と「下院」という語の語源となっています。

セカコ;どうして各州の代表で構成された「元老院」(Senate)が二階だったんですか。

先生:人数が少なかったからと言われています。各州の代表で構成された「元老院」(Senate)は議員数が少なく、当時憲法を批准していた11州から各2名ですから22名ですね、一方、人口に応じた選挙区で選ばれた議員で構成された「代議院」(House of Representatives)は65名だったそうです。

セカコ:そんな理由で上院と下院が決まったんですか。それにしてもこんな小さな建物に100人くらいの議員が詰めて、連邦議会をやっていたなんて、歴史を身近に感じます。

先生:それでは、今日の内容を見ていきましょう。学び終えたら、あちらのリバティベル・パビリオンにあるリバティベル(自由の鐘)を見に行きましょう。



先生:18世紀前半までに大西洋岸に成立した英領(1)13植民地には王領植民地、自治植民地など形式の違いがありましたが、それぞれ(2)植民地議会をもち、本国から二か月を要する距離が、自治的な気風を醸成していました。

セカコ:植民地議会って何ですか?

先生:植民地議会とは、1619年に設立されたヴァージニア議会を最初に、のちの州議会としても知られる、植民地の立法府のことです。

セカコ:それでは、本国との距離が遠かったために自治的な気風が醸成されたということですが、当時はどれくらいかかったんですか?

先生:植民地は大西洋岸にあり、グレートブリテン本国からは二か月ほどかかりました。距離があったため、植民地では自治的な気風が育まれたのです。13植民地のうち、世界史受験によく出るのは、ヴァージニア、マサチューセッツ、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、ジョージアです。この5つは覚えて下さい。

  • ヴァージニアは最初の植民地です。16世紀テューダー朝の時代エリザベス1世のもとでローリーらによって探検が進められ、入植の試みが始ります。17世紀、ジョン・スミスを中心にジェームズタウンが建設されました。名前はエリザベス1世のあだ名ヴァージンクイーンに由来します。

  • マサチューセッツは、1620年、迫害を逃れたカルヴァン派の新教徒ピルグリム・ファザーズメイフラワー号に乗って大西洋を渡り、プリマスに入植したことに由来します。プリマス植民地とマサチューセッツ植民地は別々に発展し、のちに一つになりました。ジョン・ハーヴァードによってアメリカ最古の名門大学ハーヴァード大学が設立されました。

  • ニューヨークは、もともとネーデルラント連邦共和国ニューネーデルラント植民地だった地域を1664年に奪い、第二次英蘭戦争の講和条約であるブレダ条約で正式にイングランドに割譲されました。この際、中心都市ニューアムステルダムニューヨークに改名されました。

  • 私たちが今いるペンシルヴェニアは、クェーカー教徒ウィリアム=ペンが建設しました。ここ、フィラデルフィアは、合衆国建国直後の首都でした。チェスナットストリートのインディペンデンスホールやコングレスホールは、独立戦争や合衆国建国、憲法制定の舞台となりました。

  • ジョージアは最後にできた植民地であることが出題されます。名前は当時のハノーヴァー朝の国王ジョージ2世からとられております。

セカコ:13植民地は大西洋岸に南北に並んでいて、北部のマサチューセッツは映画などで見ていても寒そうなイメージですし、一番北のジョージアは暖かいイメージです。

先生:そうですね。南北の違いはとても重要です。南北で植民地の気風というか、経済のあり方や政治のあり方に差が生まれたんですね。これは独立後のアメリカの歴史にも大きな影響を与えます。

セカコ:なるほど。まず、南部諸州について教えて下さい。

先生:南部諸州では、白人のプランター(農場経営者)が購入したアフリカ系奴隷を使役するタバコなどのプランテーションが発達しました。政治面では、本国の議会制度を模した代議制による(3)カウンティ制度(郡制度)が発達しました。(4)プランテーションの経営者たちは、グレートブリテン本国と自由に貿易をしたり、奴隷を購入したり、経済活動において制限を受けずに自由に活動したかったため、経済活動の自由を求める伝統が生まれました。

セカコ:北部諸州は?

先生:北部諸州は、南部諸州とは異なり、自営農民が中心であり、プロテスタントが多数を占めていました。自治的なしくみも発達しており、独自の文化を育みました。

セカコ:自治の仕組みですか。

先生:各村落の教会を中心に直接民主政を行う(5)タウンミーティングのような自治のしくみが発達しました。やがて、商工業が発達し、毛織物工業やラム酒製造業などが基幹産業となりました。

セカコ:素朴な疑問なのですが、13植民地が建設されてから、独立戦争まで、数十年から百数十年あるじゃないですか。初めから独立を目指さなかったのは何故なんですか。

先生:私たちは、21世紀から世界史を振り返るので、アメリカ合衆国が独立して、現在は世界最大の経済大国に成長したことを知っていますが、当時の13植民地の人々は、おそらく独立という考え方さえ浮かばなかったのではないでしょうか。

セカコ:なるほど。

先生:それから、この地図を見て下さい。

セカコ:これは、18世紀前半の、北米大陸を描いた地図ですね。色分けされてる。13植民地以外にも、セントローレンス川以北にはフランスのケベック植民地、西側にもフランスのルイジアナ植民地がありますね。フロリダはスペイン領だったんだ。テキサスカリフォルニアの一帯も、スペイン領だったんですね。

先生:そうなんです。植民地では、境界や交易権をめぐる紛争も起きていました。広大なルイジアナ植民地と接し、フランスとの間に起こった紛争を解決するためには、グレートブリテン本国の後ろ盾が欠かせなかったわけです。

 一方、グレートブリテン本国も、フランスとの戦いに13植民地の協力が欠かせなかったので、課税を控えたり、自治や自由を大幅に認める方針を取ってきました。これを「(6)有益なる怠慢」と言います。

セカコ:ユウエキナルタイマン、ですか。

先生:そうです。そうする方が有益なので、課税や政治的拘束をしない=怠慢ということです。

セカコ:先生方も私たち生徒に、ユウエキナルタイマンでのぞんでください。

重要語句まとめ

セカコ:今回の重要語句をまとめておきましょう。

1 13植民地 

2 植民地議会 

3 カウンティ制度 

4 プランテーション 

5 タウンミーティング 

6 有益なる怠慢 


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