見出し画像

150-1 デタントと2ニクソン大統領と国際秩序の再編

セカコ: 今回はデタント(緊張緩和)と1970年代の国際秩序の再編について学びます。よろしくお願いします。

先生: 1969年以降、西側の指導者たちは東西対話を進めました。特に、共和党のニクソン大統領が重要な役割を果たしました。ニクソン大統領はどのような方針を取ったでしょうか。

セカコ: はい、ニクソン大統領はアジアに対するアメリカの軍事介入を縮小し防衛を同盟国に委ねる方針、ニクソン=ドクトリンを表明しました。これは安全保障の負担軽減を目指したもので、ヴェトナムからの名誉ある撤退を目指していました。

先生: ニクソン政権は、キッシンジャー補佐官の主導で対話を進めました。彼は後に国務長官となります。ソ連側では、ブレジネフ政権が1968年のプラハの春に対する弾圧事件で権威を低下させたことから対話に応じました。この時期に始まった戦略兵器制限交渉(SALT I)は、核弾頭の数の制限を目指しましたが、削減ではない点に注意が必要です。1972年に妥結し、その後SALT IIが開始されましたが、ソ連のアフガニスタン侵攻が起こり、アメリカは批准せず、未発効に終わります。

セカコ: その時期、米ソ間では他にどんな協定が締結されましたか?

先生: 1972年には核兵器現状凍結協定、1973年に核戦争防止協定が締結されました。また、ニクソン政権は日本と沖縄返還で合意し、沖縄返還が1972年に実現しました。さらに、ニクソン大統領は1972年に中華人民共和国を訪問し、国交正常化を進めました。この時期、中ソ対立も続いており、中華人民共和国は1968年のプラハの春に対する弾圧事件でソ連を強く非難し、1969年には中ソ国境紛争が起きました。

セカコ: 中ソ国境紛争はダマンスキー島(珍宝島)での軍事衝突を含むものでしたね。ニクソン大統領の中国訪問はどのような影響をもたらしたのでしょうか?

先生: はい、ニクソンの中国訪問は非常に大きな影響をもたらしました。1971年7月にキッシンジャー補佐官が極秘で訪中し、翌年ニクソン大統領が訪中すると発表されました。 この第一のニクソン・ショックとも呼ばれる動きは、国際政治における大きな転換点となりました。同年、中華人民共和国では、文化大革命を主導していた林彪がクーデターに失敗して事故死し、政府はアメリカとの接近に舵を切りました。

セカコ: 中国の国連代表権交代についても聞いていいですか?

先生: 1971年末、国際連合では、中華民国(台湾)の追放と中華人民共和国の加盟が決議されました。これはアルバニア決議と呼ばれ、中華人民共和国は台湾に代わって安全保障理事会の常任理事国の地位を授けられました。そして、1972年2月には、ニクソン訪中が実現し、米中共同声明が発表されました。さらに、1972年9月には田中角栄首相の訪中があり、日中共同声明が発表されました。これにより、日中国交正常化が実現しましたね。

セカコ: 続いて、ドル=ショックについても教えてください。

先生: 合衆国はヴェトナム戦争の戦費による経済的負担で、双子の赤字を抱えていました。1971年8月、ニクソン大統領は、金とドルの兌換停止(金ドル本位制の停止)、為替相場の切り上げ、輸入品に対する課徴金設定を発表しました。これはドル=ショック、または第二のニクソン・ショックとして知られています。同年12月にはスミソニアン協定が成立し、円や西ドイツのマルクの切り上げ、ドル安となる新たな為替レートが設定されました。しかし、この変動は予想を超えて進行し、1973年には多くの国が変動為替相場制に移行せざるを得なくなりました。これにより、ブレトンウッズ国際経済体制は崩壊しました。

セカコ: ニクソン大統領の辞任とヴェトナム戦争の終結について教えてください。

先生: ニクソンは1972年の大統領選挙で再選されましたが、1973年にヴェトナムからの撤退を完了しました。しかし、同年、ウォーターゲート事件が発覚し、1974年に辞任しました。これは、大統領が任期途中で辞任した唯一の例です。その後、副大統領のフォードが昇格しました。

セカイシシ:ニクソンは自分の仕事をやり遂げて辞任しおった。1973年にヴェトナム(パリ)和平協定が結ばれ、米軍のヴェトナム撤退が実現したのじゃ。

セカコ: なるほど、ニクソンはヴェトナムからの名誉ある撤退をやり遂げて、辞任したわけですね。今回はデタント(緊張緩和)と1970年代の国際秩序の再編について学びました。ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?