【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その3:理之修行事之修行】

 理の修行と事の修行について。
 理とは、これまで申し上げてきた通り、行き着くところへ行き着けば何にも心がとらわれない、ただ一つの心の捨て方のことです。しかしながら、いくら無心になるべく努力しても事の修行を行わなければ、道理ばかりが頭で先行して、体も手も意のままに動かすことは出来ません。
 事の修行とは、貴殿(柳生宗矩)の兵法の場合、身構えの五箇条や打ちかかり方の技など、さまざまな習い事のことです。
 いくら理を知ったところで、技を自由に使えなければ意味がありません。太刀技がいくら優れていても、理の極まりを知ることがなければ技が完成することはありません。
 事(技)と理の二つは、車の両輪と同じ関係にあるのです。

 
 
 

理之修行事之修行
 と申す事の候。
 理とは右に申上候如く、至りては何も取あはず、唯一心の捨やうにて候。段々右に書付け候如くにて候。然れども事の修行を不レ仕候えば、道理ばかり胸に有りて、身も手も不レ働候。
 事之修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれば、身構の五箇に一字の、
さま/\〃の習事にて候。
 理を知りても、事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の聞く候ては相成間敷候。事理の二つは、車の輪の如くなるべく候。