書き散らし

膨らんだ桜の蕾を、宝物を隠すように、雪が覆った。貴方が花咲く様子を知るのが、私だけならいいのに、と思う。雫になって落ちたのは、涙だったのかもしれない。暖かな日差しの中で、きらめく貴方を見上げていた。これから芽吹く、貴方の春。そんなささやかな幸せが、私には手の届かない遠くに思えて、巡る季節を見送った。雪は跡形もなく、溶けて消えていた。


人が最後まで記憶しているのは嗅覚で覚えた記憶らしい。あの人が書いた台本からは、――正確には、あの人の手元で印刷された紙の台本からは、微かに花の香りがした。それを上回る煙草の匂いで、ほとんど分からないくらい微かに。なんだか意外だと思ったので、強く印象に残っていた。


光り続けるなんて無理だって、苦しいだけだって手を放してしまいそうになる。流れる涙を拭うには、きみと繋いでいる手を解かなきゃいけない。全部投げ出してしゃがみこんでうずくまった。だけどそれでも差し伸べられたきみの手は、やさしくてあたたかかった。きみほど明るく光れるなんて思っちゃいないよ。けれどもし、きみと手をつないでぼくたちが星座になれたら、それは素敵なことだから。広い宙(そら)の舞台で、光り輝くきみのとなりで、その手をとってお辞儀をした。ビロウドの幕が上がる一瞬が、とても長く感じられた。


緑が芽吹く中できらりと光るきみを見付けた。きみは欠けらだと言う。ダイヤモンドの、欠けら。ぼくの憧れが花咲くのはすぐだった。世界の中心みたいにきらめくきみを前にして心を奪われないなんて、そんなの嘘だ。ふたりで神様に誓って、手を重ねた。二度と離れないように手を握った。世界のなにもかもが遠くなっていく。すべてに感謝と別れを告げるきみの目に浮かんだ涙に、そっと口付けをした。唇が透明な輝きに濡れた。――おちこぼれの一等星。誰がぼくをそう呼んでも、きみの輝きに触れられるただひとりであることに変わりはない。目を合わせて、どちらからともなく笑いあった。あたたかな風が吹き抜けていった。


想像の泉に、きっかけという名の石を投じてくれる人たちが大好きだ。素敵な演技、音楽、言葉、絵画、たくさんの娯楽が溢れている。こころを動かされるのは、とても有り難いことなのだ。無味乾燥な生活の中で、ああまだ人間らしいところが残っていたかって、感情というものを思い出させてくれる。実生活がどうあったとしても、こころが動くことをやめたら、人間のゆたかさを失ってしまうように思う。多分、きっと。


泣きたいのかもしれないな、と思う。だけど、感情のバケツが空っぽだから涙が出ない。洗濯物を干しながら、食器を片付けながら、トイレ掃除をしながら、雨音とクラシックを聞いていた。水分を摂って、横になって、目を閉じる。流れ落ちる雨に溶けてしまえたらいいのにな。晴れ間が来たら消えてしまえるように。元気ではないかもしれないけれど、落ち込んでいるわけじゃない。空っぽになってしまったバケツに、少しずつ雨垂れが貯まるのを待っているだけ。


息が苦しいから、音と言葉の洪水に身を委ねた。黙って、目を閉じて、言葉を発することもできずに。大好きなはずの音楽もいまはただ、耳を通り過ぎていく。でも、その中でも、必要なときに必要なものに出会うのだ。諦めずに自分のカケラを見出して拾い上げるのだ。自由に言葉を紡げないと藻掻いて、そんな自分が嫌になっても、それでも尚掴みたいんだ。いまの自分に当てはめるかたちの言葉たちを捕まえて、自分の周りを固めるように寄せ集めたら、きっと少しは心強いから。いまの気持ちたちに名前をつけて、外側からそれを見つめて、抱き締めて、目を閉じて、呼吸する。きみたちに縋りついている、情けないわたしを、いまだけは許してほしい。


きみの幸せは、きっとぼくの手の届かないところにあるのに、ぼくはこの手を離すのが、こわいんだ。きみはどこへだって行けてしまうから。ふわふわと空を泳ぐきみを、掴まえておくのが、ぼくの精一杯だから、きみとつないだ手をつよく握った。どこへも行かないで。ひとりにしないで。そばにいて。


光を背に立つきみたちの表情は、はっきりとは見えなかった。けれど感情の滲む声が、息が、震えが、それ以上の答えをわたしに教えてくれた。頭を打ち付けるような強い感情の投げ合いに、ガンガンと目が眩みそうになる。だけどわたしは此処に立つ。きみたちから目を逸らさない。きっとそれがわたしにできる最大限の礼儀だから。きみたちを最後まで見届ける、それだけが。何も無い板の上の、彩りゆたかな背景たちは、めまぐるしく変わる場面は、確かにきみたちの声音という画材で描きあげられたんだ。どうしてそこから目を逸らせようか。息を殺して、音を立てることもはばかられて、流れる涙を拭くこともできない。震えたまつ毛からは、雫が落ちていった。揺さぶられた心臓からは、いったい何が落ちたのだろうか。


涙を貯めた金魚鉢に膝を抱えて沈んでいく。揺らめく水面に見たくないものが見えそうで目を閉じる。ぶくぶく、小さな泡が上っていく音がする。そのままこの体すらも泡になってしまえたら、どれだけ良かっただろう。息が出来なくて苦しいけれど、きっとここを出たとしても息苦しいのは変わらない。薄れゆく意識のなかで行く宛てもない手を伸ばした。その手を取ってくれる誰かはいなかったけれど。無駄な足掻きと笑われようと、それがぼくの最後のSOSだった。


明けない夜に灯したキャンドルみたいな言葉だ。揺らめいて心許ないけれど、とても温かく優しい熱が肌を撫でる。その熱が芯まで伝わっていくのを、知らない振りをして目を閉じた。

終わりが来なければいい。消えてしまうことを知っているから、怖くて目を開けられずにいる。


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