煙管式「英文解釈」との決別

演習室

『英語教育』という月刊誌に「英文解釈演習室」というコーナーがある。読者層は、おそらくプロの英語の先生方で、演習室は、読者が英文解釈の実力を磨くためのものだろう。

それを非公式に利用した「英文解釈グランプリ」というtwitter上の面白い企画がある。私の場合、それがタイムラインに流れてきて、逆に本誌の存在を知ることになった。ブック・オフで表三郎師の名前を見つけて驚いたときのように、たいてい逆から入る。逆三郎である。

本誌があくまでも粛々と刊行を重ねる一方で、非公式の英文解釈GPは、震源(Z)を中心に異様な盛り上がりを見せている。実物のサーキットを拝借しつつも、首都高バトルの精神で別カテゴリーの勝負が展開している。

熱心な参加者の活動をタイムラインで眺めていると、だんだんと興味が湧いてくる。実際に店頭で手に取ってみると、課題文もそんなに長くないし…ということで衝動買い。結局、畏れを知らずに一通り訳してしまった。

twitterで垣間見える真剣勝負の気迫を意識しつつも、自分では比較的あっさり訳せてしまったので、確かに妙な感じではあった。それでも、せっかく仕上がったので、あまり深く考えず、初めての投稿を久々の蝸牛便に託した。

締切が過ぎ、皆さんに倣って訳文をtwitterに上げると、予想以上に多くの方が丹念に読んで下さった。そういう機会は滅多にないので、本当に有り難い。投稿は、言い訳なしの訳文勝負であり、盛り込み切れない様々な内容が、各参加者の気持ちの中に渦巻いている。締切直後、それが一挙に噴出して、感想戦が盛り上がる。

違和感

多くの実力者と検討を重ねていくと、独力では思いつけなかった注目点が次々と浮上してくる。自分がなんとなく訳して投函した作業は、なんだかザルのようで、間違って違うゲームに紛れ込んだような気もしてきた。一流のマラソンランナーの横で、観客を掻き分け、ゼッケンもつけずに爆走する迷惑オジサンのイメージ。

次第にわかってきたのは、演習室は翻訳コンテストではないということ。何よりも英文解釈すべきなのであって、訳文は、その解釈の成果として完成する。その解釈のプロセスが抜けていれば、それらしい和文であっても訳文に値しない「超訳」になってしまう。意味がつながっているようでいて、無意識の訳し逃げを乱発し、構造を取り損なう罠がある。

煙管式「解釈」術

自分の作業を若干誇張して振り返れば、原文に対して、一見それらしい和文を並べたといった感じだろうか。肝心の「英文解釈」のプロセスが手薄になっている。雁首と吸口だけが金属で、それを手抜きの竹管がつないでるような。

たとえば、ウェイリー源氏は、原文と訳文を不連続の連続で継いでいるけれど、それは十分な解釈と感動に裏打ちされたものだった。素人が真似できる手法ではない。学習段階のどこかにチートがあれば、やはりどこかでツケを払わなければならない。

実力者の皆さんが、こなれた訳文にならないと苦心されていたのは、それは文法に立脚して正しく解釈するプロセスを丹念に追っていたからのようだ。和文になりきらない中間言語的世界で、正読の格闘があったのだろう。それを無意識に軽視している自分は、和文がするする出てくるし、悩みも少なく推敲も要らない。

しかしながら、実際に「翻訳」と称して市場に出回っているものの多くは、こうした煙管式ではないだろうか。どこかの流派の字幕翻訳ほどではないにしても、実務翻訳、文芸翻訳、あらゆる場面で、こうした煙管式が溢れていないだろうか。解釈や正読の工数を中抜きして、不正な値札を付けている。多くの人が、それに気づかず、感覚が鈍っているのだ。

ボタンの掛け違い

振り返ると、受験時代にはマトモに勉強せず、英語を意識的に学び始めたのは大学入学後。好きな翻訳小説を原文で読みたくなったのがきっかけだった。そのとき使ったチートが、煙管式につながっている。

大学で読む論文も、理系の背景知識と術語を頼りに、意味でつないで読んでいた。難しい構文で悩むより、早く読了して実験もしないといけない。丹念に読むということをしてこなかった。周囲の多くの人達もそうしていたと思う。仕事で英語を使うようになっても、このやり方は変わらない。ボタンの掛け違いがあっても、それに気づかないまま。多忙な日々は、歪んだサイクルの中断を許さない。

それでも、使う必要に迫られていれば、英語は何かしらできるようになる。泥縄式でも、頑張っていれば、TOEICで900は切らないし、英検もとりあえず合格る。ただ、そこから先へ進むのは容易ではない。無意識であっても、そうした絶望感があったのか、英検後にtwitterのアカウントを作り、勉強をやり直すことにした。そもそもそうした縁で、演習室に辿り着いたのだった。

煙管式との決別

こうして無邪気に投稿して、恥を晒すことになるわけだけれど、その行動あってこそ、根本的な問題に気づくことにもなった。わからないなりに何か行動したのは、無駄ではなかったのだろう。

正攻法の勉強を積み重ねている若き先輩方に倣い、わからない英文をそのままにせず、文法に立ち帰って読むことを心がけるようになった。時に疑問点を棚上げにする必要もあるので、赤鉛筆に頼りつつ、逃げないように気をつけてもいる。

いまだに、タイムラインの文法論議は半分もわからず、勉強に割ける時間は日々限られてはいる。それでも、向学心に溢れる常連の皆さんや、その熱気に注目して集まって下さるプロの先生方に学びつつ、たとえスポット参戦であっても、演習室の末席で(これが言いたかった!)、地道な勉強を楽しんでいきたい。

訳文を晒し、敗北を通して学ぼうとする皆様方、今後とも、対戦よろしくお願いします!

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