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思考の森とパン


自分にとって大切なもの・ことってなんだろうと最近よく考えます。

職場も決まって今年の4月から社会人なのに、なんだか気持ちが落ち着かない。新しい職場、新しいまち、新しい暮らしは、これまでの自分をワクワクさせるに十分すぎる要素だったはずなのに、この時期になって自分の人生がなんだかここにないような、地に足のつかない日々が続きます。人生の節目に際し、漠然とした不安からくるマリッジブルー的なアレなのかもしれないけれど、本当に大切なもの・ことがあればブレないものだろうかと、卒業旅行の話を楽しそうに話す同期を見て、ふと思うのです。


思えば昔から散漫な性格で、自分の好きなものや熱中していることなんかはその時々で変わるし、規律もなければ目標志向もないので、熱量や考えのリソースはいつでもとっちらかったまま。(こうしてnoteを書いている間にも棚の雑誌に目が移り、気になった柳宗理のプロダクトの詳細を調べ始めてから、なんだかんだここまで至るに2時間かかっています。。)散漫でメリハリが大きすぎる私という存在は、つかみどころがなく、時々自分でも自分が何を考えているかわからなくなることがあります。

大学を一年休学していました。理由にそれほどのものがあったわけではなく、かといって無責任にモラトリアムを延長しようとしたわけでもなく。それでも自分なりに考えて決断したつもり。とはいえ、いまでもその決断に責任が持てるほど納得しているとは言えません。考えれば考えるほど、決断を正当化するための理由をその場しのぎに探しているように思えてしまい、何がやりたくて決断したのか、今それが達成できているのか、思考は入り組んだ森のようにまとまらないのです。


正直、散漫な生き方は居心地が良いです。直感で行動するその日暮しの生活は、個別のものごとに対してのみ頭を働かせればよく、何かに急かされることのない自由さは自分にとってこの上ない幸福であったりもしますが、一方で、頭の片隅にはいつも何か満たされないしこりが残ります。言うなれば、学校の授業で、英語も数学も先生の雑談も、あれもこれも一つのノートにまとめてしまい、結局何を残したかったのかわからなくなるような。

考えてみると、私のこの満たされない空虚さは、なんのために生きるのかという大きなベクトル、つまり目標や指針の欠如のような気もします。ノートはそのままではただの記録装置でしかなく、そこに規律や目標(試験対策とか、蛍光マーカーとか)が存在することで始めて、ノートは思考のプロセスを可視化する装置になる。私はこのとっちらかったノートのような思考の森を、改めて整理するための規律と目標を「心動かされた出来事」というくくりでまとめ、思考の整理を通して、人生で大切にしたいもの・ことの輪郭を少しずつ明らかにできたらなと思い、このnoteを始めてみることにしました。


ここでは主に日々の出来事と自分の考えを整理する目的で、飽きないという意味も込めた名前の私が、ただただ日記のようにnoteを書いていきます。上述のとおり、根が飽き性なので三日続けばいい方だと思っていますが、果たしてどうなることでしょう。

3年後くらいにおそらく仕事やめたいとか思っていそうなので、そんな私が、どこから来て次にどこに向かうのか。このnoteがその指針になればいいなと思いながら、思考の森をパンをちぎって進んでいきます。今年の冬は例年にも増して幾分暖かいから、パンが腐らなければいいのだけど。。


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