「自分らしさ」と「フィクション」と「大衆」

自分らしさってなんなんだろう。
その悩みはいつのまにか出来てたほくろみたいに、気づいたときにはもう簡単には消せないくらい、私の心の奥深くに住み着いてしまっていた。自分のことを一番理解しているのは自分だなんてよく言うけど、私がそう思えたことは一度もなかった。そんな風にどうしようもないくらいふらふらしたまま生きてきてしまったから、「自分」というものを確立して生きているひとを見ると、泣きたくなるくらいあこがれてしまう。


「自分らしさ」を判定するのが自分自身じゃなくて他人であることもある。「元気ないよ、○○さんらしくないね」とか「△△さんっていつも~だよね」とか。軽い気持ちで言ってしまうけど、でもそれって、本人からすれば何勝手に人のこと決めつけてくれてるんだ、って感じかもしれない。

ずいぶん前に、バイト先の元店長に「あなたって他人に全く興味ないよね」と言われたことがある。そのときは咄嗟に「そんなことないですよ」って笑ったけど、本当はすごく腹が立って、同時にすごく悲しかった。そんなつもりはなかったのに、そうか、他人から見る「私」はそんな人間なんだなと、指先が冷えていくのを感じた。元店長がほかの店に移って顔を合わすことがなくなっても、その言葉を思い出すたび、私は「自分」がわからなくなっていった。


そんな私が心のよりどころにしたのがフィクションの世界だった。私には絶対にできないようなことをやってのけるフィクションの中のキャラクターにどうしようもなく憧れた。文学、映画、演劇、さまざまなフィクションたちのなかでも私が一番熱を上げたのがアイドルだった。

アイドルは現実なんだからフィクションじゃなくない?と思われるかもしれない。だけど、ファンは自分の中の理想とか欲望とか愛情とかで形成されたフィルターを通して「アイドル」を見ている。それは現実でみられる夢みたいで、でも決して現実ではない。ファンの数だけ無数に存在するフィクションたちだ。

高校三年生の冬、元店長からの言葉をきっかけに更に自分を見失っていた私はひとりのアイドルと出会った。彼女は眩しくて目がつぶれそうなくらい輝いていて、素直で、私にない「自分」をしっかり持っていた。彼女みたいになりたいと心から思った。

今彼女はアイドルを卒業し、女優としての道を切り開いている。どこまでも「自分」と向き合い、18歳でグループ卒業を決断した彼女の自分の道を行く姿はとてつもなくかっこよくて、やはりわたしの心を惹きつける。


フィクションは、個人の感情や思想、妄想などが目に見えるかたちで具現化し自分の中身を公にさらけ出す発信者とそれを受け取り楽しむ大衆たちで成り立っている。この一連の動作はただ単に娯楽としてだけでなく、それ以上の価値を持っていると思う。
理想や妄想、不満や喜怒哀楽さまざまな感情の中でわたしたちは生きている。誰でも当たり前にもっている感情たちだからこそ、それを受け止めるフィクションは大衆の心を惹きつけるのだ。

現実ではない誰かの思考の中の世界だけど、フィクションは冷たくない。きちんと体温を持っていて、あたたかい。人間とフィクションが絶対に切り離せない関係にあるのだから、そこには絶対に誰かの感情が乗せられていて、嘘だけど、嘘じゃない。嘘だけじゃないから、人間の心に届くまっすぐなものがあるから、フィクションは愛されてきたし、愛されていく。


フィクションをお手本にして、私が「自分らしさ」を見つけることはできたのかといえば、まだわからない。

でももしかしたら、こうやってむだにたくさん悩んで、誰かに憧れて、その憧れを糧に頑張るこの生き方は、私が憧れてきたフィクションたちとは程遠いけれど、私が私自身で切り開いた等身大の「自分らしさ」なのかもしれない。

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