発動

蛇は相変わらずその場に留まったままだった。


「言葉がわからんか。仕方のないことだ」


間断なく襲う痛みが渦となって暴れる体をなんとか御そうとしていたところ最後の一押しとばかりに落胆がのしかかり、男は気を失った。


あらら。ちょっとあなた、大丈夫なの?


蛇はスルスルと男に近づく。まず匂いを、次いで息遣いを確かめてそれが生きているものであるか、部分と全体から嗅ぎ分ける。男は芳しく、生まれたての赤子のように新鮮な血の匂いが体中に駆けめぐっていた。

「なによ、とっても健康じゃない。あなた」

蛇は男の生命力が周囲に放つ芳香に当てられて陶然とした。

「変なひと。これ、本当に人間かしら」

そう呟きながら自分の血がだんだんと沸き立ってくるのを感じる。眠気はとうに失せ、鱗はキラキラと輝きだした。彼女は自分のそれらの変化を逐一漏らさずに感知していく。細胞が歓喜して開き出す。脊椎に沿って尾のほうから徐々に“それ”が上昇してくる。

目がうるみ、乳が溢れ出す。


頭上の太陽が暑い。

男が干からびてしまってはいけない。


蛇はカッと顎を外して思うさま口を開くと彼の肩口に噛みついた。ズルリと木陰まで曳いてゆく。華奢に見えてもこの森の主ではあるし、何より母性が発動している只今で、彼女はなんとしても彼を守らなくてはならない。それは体が命ずることで理性が口を挟めることではなかった。

森の中でもひときわ大きなイチジクの樹の根元まで男を引き摺ると、流石に疲れて蛇は我に返った。噛みついた肩に空けてしまった傷口をペロペロと舐めながら適当に葉を集めてちょこん、と大事なところを隠してやる。

「アダムみたい」

さして面白くもない冗談をうっかり言ってしまった自分が可笑しく思え、ふふ、と笑った。


少しずつ陽が傾いてゆく。

ほどなく西陽が森を包みトロりとしたファイアーオパールの色彩に染めはじめるだろう。

微風が沼に向かって流れはじめている。あとで水辺に行って全身を洗い清めねば。

「でもその前に」

蛇は木陰で横たわる男をじっと見つめるとその胸元からゆっくりと舐めはじめた。


見ただけではどこが苦しいのか分からなかったが、今や彼女には男の痛みが悲鳴をあげているのが聴こえる。体の端々から引き攣るような叫び声が音にならないまま立ち昇っていた。

呻きの震源地をひとつ、ひとつと探り、無心で舐めてゆく。

彼女の舌が呻きの波紋を捉え丁寧にその渦を誘導すると痛みはやがて閉塞されていた体の中から解放され、あるものは天に、あるものは地の中に還って行った。


舐めながら彼女は泣いていた。


なぜ泣いているのかは分からない。温かな涙が止めどなく目から流れ出す。泣くなんて久しぶりだった。


遠くで鳥のつがいの鳴き交わす声がした。

日が暮れてゆく。















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