秋分前夜

久しぶりに胃が痛い。


ほんの一昨日前まではラーメンだってお刺身だってモリモリ食べていたのに昨日になって胃があまり食べ物を受け付けなくなった。

おそらくは季節の変わり目と生理のタイミングが折り重なったことで身体のなかでふたつの潮の流れが衝突したためなのだろう。

胃が、ただただシクシクとうなだれている。

シクシク。シクシク。

泣いているのかもしれない。

秋になるから。

秋になってしまう前に思うさま泣いておいて体勢を立て直そうとしているのかもしれない。


そんなわけで一日ずっと横になっている。

横になっているときの思考は大抵沈んだものになりがちだ。試しにその思考のまま立ち上がって外の空気でも吸いに出てみれば見る間に思考の色合いは変わってゆく。

けれど、今はこのままにしておく。

このままにしておいて頭の中に少しずつ溜まってきた疑問のピースを繋ぎ合わせてひとつの形を見つけようとしてみる。


これが起きていることの意味が知りたい。


そう思わずにはいられない時間軸に生きている只今で、だから私は迂闊に悟りたくはないのだが、それは私が結局のところ自分に起きている全てを愛おしく堪能すべきものとして手放せないからなのだろう。

悟ったら、ほら、なんかもうあれやこれやに対して「ふーん」ぐらいになってしまって満足してしまいそのままゴロン、と涅槃状態になりそうじゃないですか。涅槃状態もまぁまぁ魅惑的だけど、私寝るのは仰向け派なの。


さて疑問のピースだなんて言ったけれどどちらかと言うとそれは謎解きのヒントのほうが近いのかもしれない。どちらにしても、ひとつ、ひとつと気付かぬうちに手元に集まっていたそれらを改めて手に取って繋ぎ合わせてみると……

突然ぱちん!と風船が弾けて閉塞の球状システムから虚空に投げ出されたような視点の反転が起きた。


『コズモグラフィー』を読んでた意味はこれか!


瞬間思ったのは読破したけど未だに実質的には理解不能な物理学の本のこと。

因縁の繋がりはコズモグラフィーの著者、バックミンスター・フラーが発明したテンセグリティという球状のそれのようにAとBとが隣接しているようで接していない。物事の連なりは飛び石状にワープしている。

けれど、ある瞬間(何が起きたのだろう?瞬時のことだった)彼の書のエッセンスが鬱々とした謎解きの思考の上にひと雫落ちて、ひとひろの絵巻のようにここに至るまでの物語がつながり、語り出した。


そういうこと……!


その絵を見たならば私の中の囚われには意味がなくなる。

循環することや、満たされること。

この世的な確かさや喜び。

甘くてとろけるような投影。

そうしたものの、それが本当に幼稚な投影であるということ。言っておくが私は投影が悪いものだとは思わない。誰もが投影のなかを生きている。自分自身がまず「私」そのものによる投影なのだから。

けれどまず私そのものが投影である、と思えば疑問は世界に向けたあとに私自身にも戻ってくる。

世界と私を、あなたと私を順々に照らし合わせていく。

とても良く出来た世界だ。

私のために用意されたあなた。

あなたのために用意された私。

私達はそのようにしてこの世を生きていく。

投影は用意されたもので、それは贈り物でもあることを知る。良い、悪いは今は横に置いておきましょう。それは風向きひとつでどちらにも転じてしまうこと。


横になり過ぎてよくあることだけれど仕舞いには頭がズキズキと痛くなりだした。

けれど少しだけ愉快な気分もしている。

胃はまだシクシクしている。

甘さを手放したらさらに遠来の甘やかさが訪ってきた。とても良い香り。優しい花の。


斬りつけられて少し弱っていたけれどきっとおあいこなのだ。可笑しい。痛いけど甘やかな痛みと言ったら分かってもらえるだろうか。テトの歯形。消えなくてもいいもののひとつ。








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