辺境
……いいにおい。
目を閉じて、ゆっくりと、鼻腔を通して感じるその匂いを胸まで吸いこむ。香りの粒子はこちらの点呼に応じるかのような奥ゆかしさでふうわりと柔らかく匂いたった。
桃のにおいがする……あまい。
細かな肌理からたちのぼってくるらしい甘やかさは、そのひとの言うことをそのままに受け取るならば天与のギフトなのだった。
何もつけてないよ、桃のにおいがするの?ホントに?
鼻が利くことといったら犬のようとまで言われているから間違いない。彼女は彼の無自覚にかえって驚いてもう一度髪のあいだに鼻をうずめる。それから左耳。そのまま頬、首筋。
丁寧な軌道を描く鼻先に連動して滑らせたくちびるは身体じゅうで一番繊細で、そして敏感だった。彼女はくちづけをしただけですべてが分かってしまうのだった。すべてが。
ふふ、と目蓋のアーチをしならせるだけでそれは伝わった。
じっと見つめ合う。
その底に宇宙の深い闇が拡がっているのを確かめて安心する。ああ、やっぱり。そのまま目を閉じ、そっとくちづけの雨を降らせる。
迎えに来てはいけない。ただあなたは待たなければいけない。彼女に任せなければならない。
蛇は眠っている。
この度はまだ彼女を起こしてはいけないのだった。私のなかの白い蛇と、あなたのなかの黒い蛇。
険しい道の途上で束の間出会った旅人と約束された一夜を共にするように、と蛇が指定したのは巨大な街の辺境に立つこじんまりとした煉瓦造りの古いホテルだった。
すべてが整えられていて、青写真のなかに描かれていた。逆らう理由はどこにもなかった。
ふたりはとても気真面目な様子で食事をし、互いに課せられたものを打ち明けあった。各々に付き添う蛇にも聞こえないようにそっと、言葉少なに。行間を埋めるために見つめ合い、互いが同志であることを知った。
食後の珈琲を飲み終えて、卓上蝋燭の燈越しに移ろう緊張した表情を向け合うとなんだか可笑しくなってきて、旅人は手をのばして彼女の手をこともなげに握ってみせた。
では、ひとつになろう。
蛇が鎌首を上げた。いいえ、まだ起きないで。でも、私の出番でしょう?いいえ、まだ。ここは私の舞台なの。私にやらせて。
深い夜だった。いつかの春の日の、微風になびく花束のような香りのする人の横顔がふと見えたようだった。北辰のひと。探査機は天底の彼方を飛んでいる。
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