世界が私を裏切った。


目覚めて先ず、そう思った。



痛みは消えていた。

気を失うその瞬間まで私そのものであったかのような痛みがすっかり消え失せている。

夏の日の昼下がり、横たわる自分を覆う木の陰に風がかすかに流れる。鳥の囀りが森の樹々のそちこちから聴こえてくる。イチジクの葉の香りは青く濃厚で木陰の地面からたちのぼる土の湿った匂いとほどよく調和していた。満ちている。よい世界だ。私も鳥だ、風だ、森だ。ふうーっと、息をついた。

その時、自分を襲っていたあの痛みの不在に気が付いた。

仰向けに寝転びながら男はたちまち不機嫌になった。

あれほどに苦しみ疎んでいた痛みがあっさりとこの身から退却し、暇乞いもないままに消え失せるとは、何か自分というものがていよく弄ばれ馬鹿にされたかのような気がする。目を閉じて、どこかに痛みの残滓でもないかと体じゅうを検索する。

一晩中かけて蛇が舐め尽くした男の痛みは最早どこにも見当たらなかった。


ふざけるな。


痛みに悶絶していた時にも吐いた呪詛の言葉を再び世界に放つ。それでいて、男は自分が何に怒っているのか分からないでいた。

痛みがないならないで、自分というものを取り纏め照射するアテがないことが面白くない。それはひとが生まれて初めに泣き叫ぶ産声と同じ、存在の甘えの宣言なのかもしれなかった。


あれは何だったのだ。私はどうしてここにいるのだ。


身を起こし、寄せた片膝に腕を回し顎を載せた。眼前に拡がる世界は風にそよぐ葦の原や凪いだ水面の沼があるばかり、羽虫が時折目の前を飛び交うぐらいで男の不機嫌に構う様子はどこにも見当たらない。


あれはどこに行ったのか。


気を失う前に自分を遠巻きに見つめていた白蛇がいた筈だ。声をかけても仕方がないことは百も承知で話し掛けてしまったことを思い出す。余裕がなかったのだ。それに思えば賢そうな顔をした獣だった。


どこかに行ってしまったか。


痛みが消え、取りつく島のない世界に向かいあってみると怒りがだんだんに下火になってゆく。胸の奥にたぎっていた火が消えた途端、そこに洞が出現した。


なんだこれは。


男は驚いて両の膝を掻き抱き、身を出来るだけ縮めようとした。

洞はじわりじわりと歪んだ球状に拡がってゆく。

なかは真空で漆黒の闇。重い。重力の発生源なのかもしれない。周りのすべてを捕らえて引きずり込もうと無情な口を開けている。光は届かない。吸い込んだ光は瞬時に粉々に消えてゆく。


怖い。


見つめていると重力の黒い分子は全身に拡がり、たちまち男ごと洞のなかへと吸い込もうとしてきた。なんの躊躇いもなく襲いかかる様が何かに似ていると思ったが思い出せない。


怖い!


自分のなかに発生した洞を直視出来なくなり、思わず男は顔を上げる。


と、目の前に白蛇がいた。

赤い舌をチロチロとさせながらジッと自分を見つめている。


「目が覚めたのね、裸ん坊さん」


蛇が嬉しそうに言葉を発した。

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