「あなたには男性性の強いひとが向いていますね」

それはいつのことだったかずっと寒い季節のこと。やぶれかぶれな時期からようやく浮上しはじめた頃のことだった。


月に一度受けているオステオパシーのセッションを終え、施術台から身体を起こしたわたしに向けてS氏がそっと口にした言葉だった。

そうなんですか?と問い返すと

「基質からするとそうですね。男性性の強いひとが合っていると思います」

というのだった。

ふうむ、と妙に納得したその言葉は以後、わたしがわたしのなかの“満足”を測るときに持ち出されてくる定規のひとつとなった。

外部に必要とする男性性、と考えるとすぐにそれは行き詰まる。外に求めるものは大抵手に入らない。ひとは求めているとき、それを有することは出来ない。それがこの世の仕組みだ。だからこれはあくまでひとつのわたしの特性として捉えている。強い男性性に喜ぶわたしの女性性。確かにそうかもしれない。エネルギーの交換・相乗作用をイメージすると油を注がれ風を吹き込まれて盛大に炎を上げるキャンプファイアが浮かんでくる。わたしは最近ようやく自分の女性性の感じていることが掴めるようになってきた。それは意識を向けると語り出す。勿論、言葉ではなく、もっとずっと繊細な感覚として。


確かに男性性の強いひとから性的アプローチを受けたとき、わたしの全身は火力発電所になったかと思うような反応を起こし、一気に脂肪が燃焼し肌は艶めき眼差しや表情は自分でも見惚れるように美しくなった。身近な女性たちがギョッとして「どうしたの!すごく綺麗!」と顔を合わせるなり声をあげた。そしてチャクラというものは本当にあるんだなと納得できたほど、特に第二チャクラ(それは性を司るチャクラと言われる)の辺りで風車が常にぐるぐると高速回転しているのを感じる日々に見舞われた。本当に身体のなかで小さな竜巻が蠢いているようだった。そして仙骨のあたりで暴れ出したそうにしている蛇を単なる概念ではなく確かに感じた。

あれがわたしの基質として起こることであれば少し度が過ぎていた反応でもあったと思う。ルシファー的というか、人間が日々を健やかに送るには過剰で危険な反応だ。(適切な導きなしにクンダリーニを上昇させるのは危険だ、とメンターにも釘を刺された。(性質的に)おきれいなままで良かった、と安堵されたものだ)

過ぎ去った体験を俯瞰するとわたしの身に起きたことは女性性と男性性がS極N極の磁力の引き合いの如く反応を起こし、アースするための活路もうまく見出せないままに帯電し漏電し発火してメルトダウンしたかのようだった。

インパクトの襲来は気づきへの扉になる。そんなものなくてもいいから、などと渦中にあると思うが自分というものを充分に堪能したいたちのわたしはどうしてもそこから何を掴むか、にベクトルが向く。

そして「だからタントラなどのセクシャルなアプローチからの探求があるのか!」などと思い至る。理性が太刀打ち出来ないパワー。滅却されるかと思うほどの力動。そして、その先に垣間見える扉。

わたしが満身創痍の焦土から掴みとったのは女性性と男性性、陰陽、絡み合うふたつのエネルギーの実存をひとは体感できるのだ、という“力動”への魅了だ。カラダを持ってひとが生きるということのギフト。

マインドの探究と解放、カラダの探究と解放。

そこに道があろうがあるまいが、それはあくまでわたしの人生で起こること。素朴に、ただわたし自身のこの身の内に愛と敬意と関心をもって潜っていく。他者から知識として聞いたからではなく、自分自身の切迫した要求に突き動かされて、ようやくわたしは性的レベルにおいても人間になるように、今生において与えられた女性性を愛で、味わい、奏でることをし始めるのだ。

ひとつの体験としてのひとつの扉。

その扉を開けるとまた次なる扉が現れる。

ひとつひとつと開いていく。

寿命が伸びてひとがネオテニー化し成熟が後ろ倒しになっていたところに訪れた、それはわたしにとっての第三ないしは第四次性徴期だろうか。とくに出産を経験しているにも関わらず性的に未熟であったということの意味を少し自分に問うてみるのもいいかもしれない、と思う。(これは母性と女性性にまつわるマインド上の縛り。母になってみて、自分が世界から呪いをかけられながら育ちそれを自身で強化していたことに気づいた。これもひとつの、そしてとても重要な今生での扉だった)

そして一生を十全に生き切るというのはどういうことなのかを、考えるだけでなく毎日こころを震わせつつ味わいながら見つめていくのだ。


星が降り注ぐ。

わたしの星をそっと拾い胸に抱く。





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