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シナプス学
啓示のようにそれはやってきた。
「シナプス学を作ればいいじゃないですか」
その人はこともなげに言う。
シナプス学?……なんていい響きだろう。
それは火花を飛び散らしながら私の掌に落ちてきたカルシファーのごとく、チラチラと燦いている。
それは……、それが私のやりたいことです!
いつもであれば尻込みの文言をすぐに口走るところ、直感がそれを飛び越えて前に出てきた。
そうか。
自分の学問を作ってもいいのか。
そうだ、世界はそのように出来ているのだった。
もとよりすべてのひとが創造主である、という前提で行われるメンターのセッションなのだった。
制限はいつも(それもまた創造主であるところの)自分が作り出しているだけに過ぎない。よし、決まった。私は私のシナプス学を作ってこの世にギフトしよう。
直近のインスピレーション源は中沢新一さんの『レンマ学』、松村潔さんの日々のYouTube動画(マツキヨ哲学と私は勝手に名付けている)、そして日課の音読として日々の伴走者となってきたアレクサンドル・グロタンディークの書『ある夢と数学の埋葬』(『収穫と蒔いた種と』三部作の三冊目)。
もちろん、それ以外のありとあらゆるもの、これまで生きてきたなかで触れてきたことごとの総量が私を私のシナプス学として“つなぎまたぎ拡がる”ための視座をもたらすために使われようと、メンターの口を介して示されたのだ。
生まれたての雛のようにまだヒヨヒヨと形もなさないような、温もりだけのそれだ。
それでも私は気にいった。
この子を育てて世に解き放とう。
きっと愛されて、それ自体が愛をもたらすものとなるように。
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