西陽が奥深い森の頭上、木々の開けた隙間から射し込んでいる。

湿地のそばの草むらになった地面に光のサークルが出現し、それを森では天使の輪と呼んでいた。


いま、秋を迎えて森を包む空気は、朽ちかけた木の洞から立ち昇る木肌の香りを微かに含んでいてそれは生き物たちすべてが懐かしさにうっとりと立ち止まってしまうような甘やかさを帯びている。





私は倒木に座って目の前に出現した天使の輪を眺めていた。

なんだかとても久しぶりのような、それでいて全てがまだ何も起きていないような。

以前ここでとても大事なことを言われた気がするし、それは夢の中でのことだった気もしている。

それでもそれが起きる・もしくは起きたのは確かにここで、私はだからいまここにいるのだという確信がある。


草むらを丸く浮かび上がらせる光のサークルは外から見ているとSF映画に出てくる異次元に転送する装置のようにも見えるし、森での呼び名の通り天使たちが手を繋いで作った輪っかのようにも見える。つまり、それは特別で、中に入ることを躊躇わせる雰囲気を放っている。鳥でさえそこには立入らずただ羽虫がつい、と時折横切っていくくらいだ。


「誰と話していたんだっけ」

私はひとりごちる。

「確かに誰かと話していた気がするけれど」

私はいつも自分と会話をしている。

「とても大事な話だったと思うけど」

「思い出せる?思い出す?」

「懐かしい感じ。それにあの天使の輪。私はどうしてここに居るんだっけ」

「ここに来る前、私はどこに居たんだっけ」

ひとしきり自分に問いかける。いつものように返事はない。静寂には慣れている。森は、それでも賑やかなほうだ。自分からの応答を少しだけ待って、そのあとに外の世界に感覚を移すと途端に生き物たちの気配が遍満していて賑やかなことに気付くのだ。

立ち上がって腰と膝を伸ばす。

うーん、と上体を逸らせて、ついでに両腕もひらひらと頭上でくねらせる。私の腕は細く長くしなやかで、かつて恋人から蛇のようだねと言われていた。それ褒めてるの?と言われる度にやり返していたけれど、今にして思えば普通に褒めてくれていたのだろう。甘い香りの人だった。

……いいえ。

これは、誰の記憶?恋人?恋人って何?

立ち尽くして森を見渡す。私は一体ここで何をしているのだろう。ここはどこなのだろう。私はどうやってここに来たのだろう。ここで何をしているのだろう。私は誰なんだろう。


私は誰?


甘い風が吹き渡る。夕暮れが近づき森の空気が入れ替わる。私は私が誰だか分からないのだった。けれど不思議と不安はない。ううん、少しの心細さはある。けれど大丈夫だ、という徴を持っている筈だ。どこかにその徴を持っている筈だ。

「それを探すまでもなく」

「そうよ、それは探すとかえって見失うのではなかったっけ」

「ヒントは散りばめられている」

「見つけたらどうするのだっけ」

「あの人に知らせるのじゃなかった?」

「あの人?あの人って誰」

「ほら、私たちの大切な」

「大切な?」

「うん、大切な……あの人よ」

「待って。堂々巡りだわ」

「思い出せる?思い出す?」

「待ちましょう。待つの」

「そうね。待つのは得意だわ。これまでも待ってきたのだし」

「どれだけ長い間待ってきたことか」

「待ちましょう。それが私に出来ることなのだから」

「待ちくたびれたら?」

「待ちくたびれたら…、その時は世界が解けるまでのことよ。私の知ったことじゃないわ」

「では待ちましょう。ほつれ目の到来は世界に任せて」

「今夜はここで夜を明かす?」

「そうしましょう。火を熾すのは得意だわ」

「あそこに無花果の木があるみたい」

「ちょうどいいわ。実がなっているじゃない」

「アダムとイブのお話しみたい」

「林檎じゃないけれど」

「蛇にそそのかされるかも」

「邪悪な蛇に?」

「ううん、邪悪さはもとから邪悪な者にしか干渉出来ないものだから」

「この世界には必要ない?」

「必要ない。私が許さない」

「それよりは」

「そう、それよりは」

「必要なもの。世界にも私にも必要なものを」

「愛を」

「そうよ、愛をねだりましょう。蛇に出会ったら」


無花果の巨木の下で火を焚きながら獣たちが寝支度を始めた森を見渡す。

私の腕は蛇のよう。

無花果の実は甘い恋人の体のよう。

時間は無限に。私は何も知らない。そしてきっと全てを思い出す。







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