センシェントに過ごす

アーノルド・ミンデルの本を数年越しに再び読んでいる。


私の精神世界遍歴は30代に始まって今では揶揄される言葉のひとつとなってしまった所謂“自分探し”をそれ以後ずっとしている。ダサい事(そう、それは2020年の今、ダサいことなのだ。ダサいものは、ダサいと評する側にとって何かしらの嫌悪を喚起する。つまりそう捉える側のなかに実はダサさの種が埋まっている。この辺りは視座の自由度を増していくとすぐに誰でも気付けるトリックである。何はともあれ世の潮流、つまり集団意識はいまそれを良しとしないタームに入っているな、ということ)を表明するのは私が天邪鬼だからかもしれない。スピリチュアルという言葉も揶揄される匂いを帯びるようになってしまって、勿論その揶揄する感覚は私の中にもある。ある種の安っぽさを感じる。でも、だからこそそれを簡単に揶揄する側には加担したくない気もしている。それはマウントだから。そういう場面に遭遇すると即座にお前何様だよ、と思う尖った自分が発動してしまうのである。いえ、私だってゆるふわスピは苦手だけど、それとそれを揶揄するのとは違うだろうと思う。君、そんなこと言ってるそばから君自身の徳をどんどん失って天国に積んでるポイントを失効していってるぜ、いいのかい?と、口には出さないが思っている。


前置きが長くなったけれど、そんなわけで今更流行らない(とされている)自分探しをしています。これは言葉のトリックが幾重にもかかっているワードだからこれを読んだあなたが『うっ、自分探しって言葉苦手なんだけど…』という時期にいるのならば丁寧にあなたの感覚に沿う言葉を見つけて置き換えて下さい。いずれにしてもこういう話題に関心のある方ならば的を得たソレを見つけてくれることと思っています。そして私は敢えてダサい(とされている)言葉を使っています。そこに付随する違和感も含めてとてもセンシェント(知覚する)な視座をもたらすと感じているから。

さて、センシェントという言葉が出てきたところでアーノルド・ミンデルです。

彼の本と出会ったのが正確にいつであったのかは思い出せません。取り憑かれたように大きな書店に通っては心理学や精神世界の棚を漁っていた数年前までのどこかのタイミングで出会ったように思います。自分探しをしていると飢餓感に取り憑かれてあれでもない、これでもない、と本当に餓鬼のようになる時期がありますが、ミンデルと出会ったのもその一環だったと記憶しています。(蛇足ですが、私はこの餓鬼状態を通ることによって後々から振り返ると本当に良かったと思っています。ある種のマジックアワーだったと。今が第七天国にいるわけでもなければ余裕をかまして上から目線で言うわけではなく、今も絶賛自分探し中(というよりは自己鍛錬・洗練中のほうが今はしっくりきています)ではありますが、ガッキーとして(本家新垣結衣ちゃんも丁寧な暮らしをする餓鬼もどちらもかわいいですね←蛇足)ガツガツと飢えて書店や世界を彷徨っていた時、当時はまったく分からずに手にした種々の布石が自己の人生における星のカケラであることに気づいているのです。それはそれ以上でも以下でもなく、きっちりと私を私たらしめる布石として用意されていたかのように。但しだからハイ楽勝、と言いたいのではありません。布石の星々は“私”を鍛錬する為の土星(※土星は節制・抑圧・指導を象意)である場合がほとんどです。そして同時に金星や木星、時に火星だったりもするでしょう。)

さてミンデルですが、プロセスワークという心理療法を編み出し、ユングにはじまりドン・ファンや孔子、そして現代物理学に到る広々とした視野を通してわたし達の内外に横たわる問題へのアプローチの道筋を探るその世界観は何冊もある彼の書籍に触れればすぐに感じ取れるものだと思います。

ですが、数年前に手にした時の私はそこに求めの源泉たる気配を微かに感じていたものの(だからこそ何冊も本を購入していた)自分が彼の展開する世界観に何を見出すべきなのかまでは分かっていなかったのでした。

視野の狭さ、偏り、浅さ。

数年経ってミンデルを再読し始めた今、自分がその時とは明らかに違う場所に立っていることに気付きます。

勿論、未だに狭く浅く全てを掴めるわけではないのですが、それでもミンデルが生という時間の拡がりのなかで多元に、そして自由に、なるべく心地良く愛に沿う優雅さでそれを探究していこうとしていたことが感じられて深く共鳴するのです。

ドリーミングボディという、当事者とその人を取り巻くあらゆる人間関係、環境、事象、夢…その人世界のそれこそ全てから“気づき”を拾いあげていく、人生そのものを自己のミステリーハンターとして生きる姿勢には通ずるものを感じる人が多いのではないでしょうか。どうですか?きっとあなたもそうでしょう?私たちはミステリーをハントせずにはいられないのです。そして私たちにとって最大の謎はいつだって自分自身なのです。

この度、ミンデルを再び手にするようになったのは最近知り合った方のツイートがきっかけでした。

あ、私その人の本持ってる。と反応したのが小さな一歩で、しかし興味深いのはその彼女がどうしてミンデルを読むに至ったのかの背景が不思議なまでに私自身の世界の出来事の鏡像として展開されていたからです。

その方とは本当に不気味なまでの鏡像関係にあり、そして彼女の置いた布石がミンデルとあっては、これはもういよいよドリームボディのメッセージを読む時期に来たのだな、と覚悟を決めたところから私世界は一気に雪崩をうって読み取るべきメッセージの点滅があらゆる角度からやって来ています。正直勘弁してほしいと思う時もあります。千本ノックのように、あらゆる事象がキチンとテーマを通底させつつ私目掛けて飛んでくる只今です。

人も言葉も見た景色も今耳にしている音も。

そしてこの身体も。

センシェントな関わりを一度始めてしまえば気づきの入り口はあらゆるもののなかに見出すことになります。


ひとつ。

気づきに方向性を持たせることも大切です。

私はそれを何の為にしているのか?をベースに置いておくことです。つまり、それが自分軸ということです。

私の場合は、これだけは生来の気質から離れられない必然なのですが“喜ばしいこと”の為という設定になっています。なので、辛く苦しいことが打ち込まれても必ずそれを喜ばしいことに転じるまでは手放せません。(勿論、そういう思い込みなのかもしれませんが自分の内側の取り決めというものは強力に人生に作用しますよね)そのような自分軸はひとにより様々なのでしょう。どのような軸でも太くすっくと立つような美しい大木のようなそれを見せられると感動するものです。

自滅には向かわない、ということです。

自分を探して自滅しない。

いえ、もしかしたら悟りを開く方向で“自己を滅する”ということもあるのかもしれません。

そうなるまでの暗闇の時間ということは当然あるでしょう。

そうだとしても方向性をキチンと持ち続けることだと思います。

暗い暗いブラックホールにいるときも彼方に一点、ホワイトホールへの転換点にフラッグを置いておくこと。


そして、世界に呪いを吐かない。

私が発した言葉は他者のためのものであっても多分、いえ恐らくきっと自分に返ってきます。

それが自分に返ってきた時にどうするのかを奥にいる自分が知ろうとしているようです。ちゃんと見ている。

だから世界は遍く私の鏡像でもあるのだな、と実感を重ねる日々です。

目の前で起きた出来事の、それがわたし達に告げようとしていることは何なのか。

だんだんと「あなたはわたし」が真に迫ってくるような気すらしています。

愛する人だけのことではなく、友人も家族も出会ったばかりの人も。

そういう風に見えてくる世界もある、というお話しです。






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