友人

夜はとっくに更けて通りの車の音もすっかりと止んでいる。ただ、遠くで救急車のサイレンがこだまするのは致し方ない。ここ数週間そればかりは止むことがなくなってしまった。世界は突き進む方向をどうやら定めたらしく、そしてもう元には戻らない。我々の知る姿には戻らない、ということだ。


僕はつい先頃失恋した。


知られることなくひっそりと、だが確実に伸びてゆく春先のポピーの花のように陽の光に向かって咲いていった恋だった。

無邪気に相手を慕い、気持ちのままに求めてゆく恋はやがて想いの爛熟するにつれ花弁が厚みを増しすっくと屹立する術を見失っていった。

花が花でなくなるとき、僕は自分が芯を失いただ闇雲に相手を世界のなかに探し求めるようになってゆくのを見た。自重でこしらえたブラックホールが僕をすっかり捕らえ、僕は僕でなくなっていった。そうして彼女に繋がる道が消え、僕の手は空を掴んだだけで力無く垂れ下がった。僕は虚無に囚われた。



友人が言った。


「好きになれたのなら良かったじゃないか。たとえ彼女が君のもとにいてくれなくても、君は彼女という愛する人を得たわけだろう?」


…君はだって、そうだよな。君はたくさんの人と出会って、誰かひとりと決めることなく君が愛すると決めたひとみんなを愛していく、と決められたんだから。でも僕には自分にそれが出来るとは思えない。想像もつかないんだよ。僕は「彼女が」いいんだ。そして彼女に愛されたかったんだ。


「分かるけど、分からないなぁ。僕なら諦めたりしない。それじゃ不誠実じゃないか。かと言って無理矢理相手のところに押しかけたりもしないけれどね。相手が幸せであってくれたらいいと思うな。」


それは君が他にも沢山相手がいるからだろう?孤独が時には必要、と思えるほどにいつも誰かがそばにいるからだろう?


「待ってくれ。君は何か勘違いしてないか?」


何がだよ?


「君は相手がいないと満たされないと思っているのか?孤独を埋めるために恋人を求めているのか?」


そういうつもりで言ったわけではないけど、ただまぁ、彼女を知ったからこそ彼女の不在が余計堪えるというか…、ここに虚無が巣食ってしまったんだよ。


僕はみぞおちに右手をそっと置いて友人に示してみせた。彼はそれをじっと見つめ、そして溜め息まじりに諭すように言う。


「君の味わっているものは僕も知っているよ。……でもそれと君の愛する人とは関係ない。君は多分そのことをそろそろ知るべきなんだろうな。」

「いいかい。もちろん僕だって偉そうなことは言えないがこれだけは言っておくよ。誰も、君以外、君を本当に満たすことは出来ない。恋はたしかに満ち欠けの訪いだ。恋人が満たしてくれる瞬間はある。ほんの一瞬。君が誰かを満たすこともある。ほんの一瞬。けどそれはすぐに消えてしまうものだ。それを知らないままにそんな瞬間ばかりに身をやつしてみろよ。君は一生、その泡沫に翻弄されて終わることになるぞ。」

「その洞を埋めることばかり考えていてはダメだ。それは埋めなくてはいけないものではない。それが君のなかにあることを君が受け入れたとき、君が君自身とそのなかに留まって、すべての君自身の声を受け入れたとき、その時分かるさ。」


君はそれが分かったのかい?


「それなりに時間は掛かったけどね。けどそうだな、今はそれが分かるし、だからこそ僕なりにひとを愛することが出来るようになったんだ。

まぁ、いいことだと思うよ。辛いのは分かるさ、ようく分かる。けど死ぬまでにそこを通ることが出来て良かったと思う日がくるさ。そんなの何も気づかずに右往左往して終わるなんてまっぴらごめんだ、と思う日がね。そして君が彼女に本当に恋する日がくるかもしれない。そのときはまぁ、君そのものが愛になっているんじゃないかな。」


……なんか凄いな。僕自身が愛か。前から思ってたけど、改めて君は凄いな。


「何が?」


…よくそんな歯の浮くようなこと言えるな、ってことがさ!ごめん、だけどこれ褒めてるんだからな。


「あはは!いいさ、よく言われるから。」


僕らは禁酒法に圧倒された世界の片隅で美味しい水の入ったグラスを傾けながら、カウンターの奥から流れてくるピアノ曲の音色を確かめ合う。店主の掻いた氷のうえにやわらかな旋律が沁みいって、グラスのなかで小さな小さな対流を作っていた。そうだ。バタフライ効果という言葉があったっけ。

そうするうちにいつしか学生時代に見に行った大英自然史博物館の蝶の標本にまつわる思い出話へと移っていった。








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