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走り書き

覚え書き。

南方熊楠を(中沢新一さん著書経由で)知り、そのまま中沢新一さんの『レンマ学』を読みはじめてレンマという知性体系について思いを馳せている。

『レンマ学』を読みはじめてかれこれふたつき、まだ前半部分までしか進んでいない。が、中沢新一さんの5年ほど前の京大での講演(YouTubeで見つけて視聴した。すごく面白い講演。)でその概要は掴めた気でいる。それと『レンマ学』の目次を見渡してレンマというものの構造も雰囲気は感じている只今。

それが2023年4月の現在。

遡ること3年、コロナ禍に入ったあたりから日課の音読の本として読み続けているアレクサンドル・グロタンディーク(ユダヤ系ドイツ出身のフランスの数学者。代数幾何学の分野で数論幾何にまつわる多大な功績を残した。)の告発の書にして哲学の書『収穫と蒔いた種と』三部作を(意味が全く分からないまま)音読し続けている、そちらも間隔は途切れがちながら今に至っている。そろそろ三部作三冊目の『ある夢と数学の埋葬』が終盤にさしかかって終わりが見えてきている。

そもそもこのグロタンディークの本の存在が無ければ自分のなかで始まらなかったかもしれない世界線だらけな今が面白い。
間違いなく、グロタンディークの三部作『収穫と蒔いた種と』は私にとってのマイルストーンだろう。

数学という、論理の権化のような領域に触れ、そこで数学者たちそれぞれの営みを垣間見るに人間の知性が何を拠りどころとし、何を作り出そうとあがき、何に魅了され、何を嫌悪するのか…が、完全なる門外漢として見たときにフラットに見えてくるものがある。

アーティストである村上隆が『スーパーフラット』という本を著しているが(未読ながらタイトルを見た10年ほど前にすごく鮮烈なインパクトを受けたのでキーワードとして頭に残りつづけている。何か、自分にとって当時スーパーフラットなる感性が欠落したものとして図星に刺さったのだ。)その言葉が示そうとしていたのはこういうことなのかな?と、数学という異境に思いを馳せる度に私をインスパイアしてくるものがある。

苦手領域の数学へのガードが緩み、むしろ関心をかき立てるものとなってくるにつれ、それまで対立する領域として自分のなかでも捉え方に葛藤を覚えがちだった精神世界への避けようもない好奇心が再び、そしてこの度は真正面からの堂々たる姿勢で私自身にアピールしてくるようになった。

私にとっては子を産み、母性への違和感に悩んだ時からはじまった自分と精神との模索の旅である。
入り口はカトリックの教えから「愛」というものに馴染むことからスタートした。これは当初本当に苦労した。愛?そんな言葉は小説か映画のなかだけのものにしておいて下さいよ!と、まずその言霊に怯んだものだ。

入り口は完全なる宗教である。
けれどそこでみっちりと人類がどのように精神を扱ってきたかが歴史や神学的観念とともに学べたのは良かった。そしてキリスト教を離れる時に罪悪感こそはひとがこの世でまず植え付けられる呪縛なのだな、と気づけたのは大きな収穫だった。

罪悪感はひとから自由を奪うためのテクニックだと思っている。そこから派生する色々が多面性をもつので断じたり論じたいとも思わないけれど。

横道にそれた。

2023年のいまはYouTubeで検索をかけると色んな人が独自解釈の色んな発信をしていて、それは精神世界系でも同じだ。

いま私はちょうどカタカムナが面白いというフェイズに入っているので(それも幾何学的に見る感性が育まれてきたグロタンディーク影響のおかげで)その方向からアプローチしている人の話がお気に入りだ。
と、同時に同じカタカムナでも違うテンションから動画を配信している人もいて、軸点がズレるのだけれどそれもまた楽しい。

数学の世界でも論理の軸は人それぞれなのだ。

論理というのは人間ひとりひとりのなかで自由に形成されてこそかもしれない…というのはレンマ的知性を知ったからこそ私が私に許せるようになった「今まで見えていなかった領域」なのかもしれない。

そして私は日々シナプスの発火と新たな接続が生きている喜びなのだろうな、とアタリをつけている。

シナプスが今のキーワードだ。

走り書きの覚え書き。

恋人が待っているので今日はここまで。

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