終わりをはじめる
お前ではない。
ひとまず息を吸って。とりあえず落ち着いて。聞こえてしまったの?ああ。肩のところに力みが入ってしまったでしょう。胸がザワッとしたかもしれない。後頭部にも緊張が走った?ではそれらを感じてからふーっと息を吐いて……。そう、一回では収まらないから、ゆっくりと何度か吐いて…、自然に吸って…、待ってるのであなたのペースで戻ってきて下さい。覚えていてね。一緒に進むのだから。ゆっくり。ゆっくりよ。ここにいるから。私はここにいます。
「お前ではない」
………ああ、まただ。
またこの声がする。この声が聞こえたら何をしていても世界は即座に灰色に転じて私の胸には鉛の塊が生える。
何度この声を聞いただろう。何度聞かねばならないのだろう。
私はもう疲れてしまった。この声を聞くことにもこの声から逃れることにも。
それはいつでも微かな予兆と共にやってくる。私は世界に問う。私の何がいけないのか。私はどこで間違えたのか、と。あなたは私の生を保証し、私の時間を護るのではなかったのか、と。
必ず護る、という約束のもとにこの世に遣わされた筈だった。私は無邪気にあなたを信じた。私は、私たちは、何も間違ってなどいやしないのだ。
それなのに
「何故だ!」
森のなかで男の咆哮がこだまする。
男がはじめてこの森にやって来たときも口にした言葉だ。あの時は怒りに満ちた世界へのののしりだった。だがこの度は。
これもまた怒りなのだろうか?
それとも悲しみだろうか?
男の腕には子を産むと同時に死んでしまった蛇がいた。生まれた小さな白蛇は産声を上げると同時に地に吸い込まれて姿を消した。産んだ母蛇はくるん、とひと回り螺旋にのたうち回ったかと思うとそのまま息絶えてしまったのだった。
亡骸はどんどんと固く冷たくなってゆく。
鱗から絶えず発せられていた周囲を照らすような光も次第に消えてゆく。
蛇が逝ってしまった。
彼女を抱きしめながら男は泣きじゃくる。
そしてどうだ。
蛇を胸に抱いているのに、まさにその胸にあれが再び現れる。洞だ。
蛇が傍らにいてくれさえすれば現れなかった洞が、再び男の中心に穴を穿ち、重力を持ちはじめる。男は戦慄する。蛇を抱きしめながら全身が粟立ち、思わず仁王立ちになる。しかし足には全く力が入らない。硬直し、どこを見ればよいのか分からない。誰か。助けてくれ!何故私がこんな目に遭うのだ!蛇よ、私を置いて行くな!
洞が勢いを増して男の胸を蝕んでゆく。自分の内側に穿たれた穴だ。逃れようもない。真っ暗な、完全なる虚無。全きの絶望。漆黒の洞が無情に口を開け男を飲み込もうとしている。足に力が入らない。そこに吸い込まれたくないという気持ちだけが今の男だ。嫌だ、来るな、消えろ、失せろ。
と、男の腕から蛇の亡骸が奪われる。力が抜けた拍子に洞に吸い込まれてしまった。
蛇!
最愛のものを奪いやがった。私の、私の、私の愛するものを!
男の腹と胸はもうほとんど洞に侵食されている。そのなかに消えてしまった最愛のひとを目を凝らして探そうとするも何も見えない。完全なる闇とはそういうものである。男の怒りと恐怖は森の全ての音を消し去る。全ての存在が息を潜めて男のなりゆきを見つめている。鳥も草木も天も地も。
もはやこれまで。
男は自分の生存を呪った。産まれてきたことを呪った。私は私ではいられなくなる。もう駄目だ。
と、男は脱力するや蛇が消えてしまった漆黒の空間を正視した。硬直し抵抗していた全身から力がだらりと抜けてゆく。
そして耳元で声が聞こえた。
「トビコメ」
「ソコニ トビコメ」
「トビコムンダ」
「ソウツイセイ ダヨ」
ボクラハ ソコデ マタ アオウ
男は目を閉じる。閉じた先に漆黒の闇が拡がる。
見えるかしら
ほらあの奥に
光の粒が見えない?
「ココニ イルヨ」
男と蛇の消えた森に音が戻ってくる。
最前から男の耳元で囁いていた虫たちが森の木々にざわめきを受け渡し、やがて鳥たちもそれぞれの巣に戻り夕暮れの歌を鳴き交わしはじめた。
さあ
そろそろ円環を閉じることにしようか。
物語は始められたらいつかは終えなければならない。
世界とあなたと私の意志をして。
最終章をはじめよう。
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