抱擁

虚無と孤独。

私が見たのはそういうものだったのかもしれない。


我が身の内側にぽっかりと口を開き、あろうことか私自身を呑み込もうとしている洞の絶望的なまでの吸引力に芯から恐怖したとき、私は「私」からの強い要請で目を外界に転じた。転じることが出来た、と言ってもいいかもしれない。そのくらいそれは危ない局面だった。


目を上げたそこには蛇がいた。        日の光を受けて白く輝いている。

そしてそれは口をきいた。


「目が覚めたのね、裸ん坊さん」


なんと。蛇が喋った。

驚いた。それが口をきけたらいい、と期待はしたがいざそうなるとやはり混乱はする。獣が口をきく。いや違う。世界ははじめからそういうものであったのではなかったか。

…どうも混乱してきた。そもそも私がなぜこのような姿で狭苦しい個体のなかに閉じ込められているのか、それが違和であったのだ。このような、まるで人間のような、稚拙で見どころのない姿などに閉じ込められている。


「ねえ、聞いてるの?」

 

……は。蛇が何か言っている。


「ちょっと、聞いてるの?嫌ね、難しい顔して。無視しないでよ」


文句を言ってるらしいのだが、蛇は今にも笑い出しそうな声音で私に話しかけていた。私は随分と厳しい顔をしていたらしい。と言っても私は笑ったことなどないし、表情というものを気にしたことなどないのだが。蛇は目の前でゆらゆらとその長い首をひねりながら私の表情を左右から見定めようとしているのだった。


「ねぇ、あなたはここに何しに来たの?何があったの?」


それは……と、答えようとして自分が何も知らないことに気づいた。そんな筈はない。私はおよそこの世のことで知らないことなどない筈だ。しかし何も分からない。答えようとするその言葉が出てこない。分かっていた筈のことがすっぽりと消え失せている。訊かれたことの答えが手の中にある筈なのにいざ手を開くとその瞬間、泡が弾けるように消えてゆく。訊かれれば訊かれるほど、それまで知っていた筈のことがパチン、パチンと弾けて消えてゆくのだった。


「どうして裸なの?どこから来たの?」


蛇は楽しそうに矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる。そうやって私の反応を楽しんでいるらしいのだった。


……よしてくれ。


「ん?」 

 

今、訊かれると全てを忘れてしまう。今は何も訊かないでくれ。


「あら」


蛇は察知したのか静止して、その長い首を暫く真っ直ぐに伸ばしたまま私を見つめた。


緩やかな風が森のなかを吹き渡った。鳥達も午睡を楽しんでいるらしい。風の音しかしない。


と、蛇は静かに地に伏せてそのままするすると私の足もとまで這ってくるや足首のところで小首を傾げ、 いい? と確認の眼差しを向けたかと思うと、丁度良い木の幹を見つけたかのように私の脛を辿り、立てた片膝まで昇り、そこで鎌首をもたげると改めて私の顔をまじまじと覗き込んできた。


「裸ん坊さん。何もかも忘れたのね?」


……そうらしい。お前が何か訊くたびに私のなかから答えが消えてゆくようだ。知っている筈なのだが。


蛇の微かな吐息が顎先をくすぐる。蛇は相変わらず私を凝視しつつも言われたことをゆっくりと咀嚼しているようだった。


ふいに、私の首元にその顔を絡ませてきた。冷たくて少しだけ温かい。生命をまとったものの優しい抱擁だった。


「大変ね。でも、きっと大丈夫よ」


安心というのはこんなにも心地良いものであったか。蛇の抱擁はさほど温かくもないが、私のなかの洞をじんわりと溶かしていく。






 



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